SS② 掃除中の一幕
「なおっち、ちょっとそこどいて」
「悪い。てか、それどこに置くんだ?」
「わからないけど、でもここに置いとくと整理できないじゃん」
学校終わり、解放感に包まれるべきこの時間に、俺と西川はいつも通り江南家の掃除を手伝っていた。すでに一時間以上手を動かしているから、窓の外が徐々に赤らんでいくのが見える。どこからともなく聞こえる秒針の音が、黙々と作業していた俺たちの空気に一定の刺激を与えていた。
西川は、両手にごみ袋を抱えて、俺の空けた道を通り抜けていく。玄関はすでにゴミ袋で埋め尽くされているから、最終的にリビングの隅に置いておくことにしたようだ。
「多少は片付いたかな?」
「いや、それはどうだろう……」
江南母を起こさないように、声のボリュームを絞って答えた。
俺は、目線だけを背後に飛ばす。
確かに、初めてここに来たときよりはだいぶマシになっているが、一般的な家庭とはまだ差がある。普段、自分の家の掃除をしているから気になってしまう。床にこびりついた謎の黄色い染み、ゴミを集めるたびに宙を舞う埃、名前も知らない虫の死骸がひっくり返っていることさえもある。最初はおっかなびっくり掃除していた俺たちも、徐々に慣れてきてしまって、無心で手を動かせるようになった。とはいえ冷静になり、しまいこんでいた常識を脳裏に浮かび上がらせると、やっぱりまだゴールは見えない。
「西川もだんだんマヒしてきてるんじゃないか?」
「うっ……」
痛いところを突かれたというように、上半身をのけぞらせる。
「なおっちに言われなくてもわかってるんだよ……。最初にドン引きしたこの部屋の臭いすらほとんど感じなくなってるもん。吐き気を催すこともあったくらいなのに」
「そうなのか、それは気づかなかった」
「なおっちは順応が早かったけどさ~。わたしは、顔を青くして掃除してたんだよ」
「フォローできなくて申し訳ない……」
西川の評とは違い、俺も初めは余裕がなかった。西川や江南さんを気遣う気力もなかったくらいだ。
「人間の順応力はすごいものだね。臭いなんてあるのかな、って途中から錯覚するんだよ。そして、次の日になって、またこの部屋に来ると『ああ、やっぱり鼻が鈍ってたんだな』って再確認する。その繰り返し」
俺はうなずく。西川より余裕ぶっているが、俺も自分の嗅覚が壊れてきているんじゃないかと不安になることがある。だから、リセットしてからここに戻って、強烈なにおいを感じ取れたときに不思議と安心感を覚えたりするのだ。
「Gはまだ無理だけど、奴すらつかめるようになるんじゃないかとすら感じてる……」
「江南さんの現在を考えると、それは遠くない未来かもね」
今でも、空き箱一つで駆除した江南さんの勇姿が網膜に焼きついている。
そのとき、玄関のほうからドアの開く音が聞こえてきた。ガサガサとかき分ける音もつづいて、それから俺たちの目線の先にあるリビングの扉も音を立てて開いた。
片手にビニール袋を持って、江南さんが帰ってきた。
「あ、梨沙ちゃん。お疲れ~」
フロアモップの替えがなくなってきたので、江南さんが買い出しに行っていたのだ。ついでに、ビニール手袋や雑巾なども追加購入したらしい。
早速、俺は壁に立てかけてあったフロアワイパーを手にとり、替えのモップをとりつけた。思ったよりも床が汚くて、最初に買った分だけでは足りなくなってしまった。
立ち上がったところで、ビニール手袋を装着しなおした江南さんが声をかけてきた。
「あのさ……」
なぜか自信のなさそうな声色。普段であれば考えられないような雰囲気だ。
「どうした?」
「いや、改めて、手伝ってもらって申し訳ないなって……」
俺は手を止めてぱちくりと瞬きする。え? なんで今さら? しかし、その答えは少し考えただけでわかった。
「臭い?」
今度は、江南さんが驚いた。
「なんでわかったの?」
「さっきまで、ちょうど西川とそんな話をしてたんだ。ここにずっといると臭いがわからなくなるけど、一度出てから戻ると分かるよねって……」
「ああ……」
江南さんも、一度買い出しに出かけて、リビングに戻ったときにその強烈な臭いを改めて感じたのだろう。
「別に気にしてないよ。俺の性格からして、このままにしておくことのほうが精神衛生上良くないし。それに、俺も家を掃除するときにひどいものと遭遇することがあるし」
「あんたんちでも?」
「排水溝の掃除を怠るとひどいことになるよ。毎日掃除するわけじゃないから、長期間放置しちゃうことがあって、気づいたときにはとんでもないことになってたりね」
排水溝や水道管の汚れは、Gの発生につながる。一度、排水溝からGが出没して以来、洗浄液を流したり、排水溝をこまめに掃除したりして、気を付けている。
「そ……」
興味なさそうに江南さんが言うが、この反応にもすっかり慣れてしまった。たぶん、江南さんは素直になれないだけなんだと思う。
こんなこと言うと、江南さんに怒られるだけなので言わないけれど……。
「慣れっこってことだ。さすがにこれだけの量に直面したのは初めてだけど、やることは変わらない。偉そうにしていればいいよ」
「偉そう?」
「いつもそうでしょ」
それからしばらくは、俺も江南さんも、淡々と手を動かしつづけた。なにせ、回収しても回収してもゴミが出てくるような状態だ。しだいに、腰に疲労がたまり、動かしつづけた腕が強張ってきた。赤らんでいた空が暗くなり、斜めに立てかけられた時計の短針がまっすぐ6の文字を指すに至った。
なんでこの場所は、こんなに物寂しいのだろう。ふと、そんなことを考えた。
さっきから黙って掃除していたせいだろうか。壊れた家具の破片や、ゴミの裏に隠れた細かな汚れを目に入れるたび、この部屋はもう死んでしまっているんじゃないかと錯覚する。
この部屋が、生き返るときが来るんだろうか。あてのない作業の先に、ちゃんとゴールがあるんだろうか。
今日最後の一袋と決めていたゴミ袋を縛りあげたとき、西川が同じように並んで立った。
「疲れたね~」
ビニール手袋を外して、ぷらぷらと手を宙に散らす。
「しばらく自分の家の掃除はできそうにないな。家でも掃除してたら気が狂いそうだ」
「同感~」
もう切り上げ時だ。江南さんもそう思っているらしく、だるそうにこちらに歩み寄ってきた。それから言う。
「お疲れ。今日も助かった」
「梨沙ちゃんのためだから当たり前だよ~。明日もやる?」
「そうしてもらえると助かるけど……」
ちらっと俺を見てきたので、仕方なく「大丈夫」と返してやった。
「そ。じゃあ、明日もよろしく」
「はいはい~」
江南さんの部屋に置いていた荷物を回収し、玄関まで向かう。靴を履いている最中に、また江南さんに声をかけられた。
「あのさ」
「なに?」
ゴミが積みあがっているせいで、靴を履くだけでも一苦労だ。一部を江南さんの部屋に押し込んだことで、ようやく通れるスペースを作ることができた。江南さんが考え込んでいるようなので、待っている間に靴を履き終わってしまった。
「梨沙ちゃんどうしたの~?」
隣の西川が、ニコニコと笑いながらそう尋ねる。その笑顔で少し気が楽になったのか、ようやく江南さんが口を開いた。
「あんたら、よく引かないよね」
今日に限っては、江南さんから自信が失われている。しゃべり方や細かな立ち居振る舞いに変化はないけれど、その言葉の一つ一つに違和感を覚えてしまう。
戸惑っていないのは、西川だけだ。
「こんなの背負わせて、重いんじゃないかって思ってる?」
何気なく発せられた西川の言葉に、江南さんがうなずく。
「あんまり人に頼むようなことじゃなかったかもしれない」
「でも、頼みたいって思ったから、こうしたわけでしょ。あたしは気にしてないよ~」
「ほんとに?」
「あのね、梨沙ちゃん」
珍しく真面目な顔になった西川は、江南さんの肩に手を置いた。
「難しいことを考えすぎだよ。わたしは、梨沙ちゃんを助けたいだけ。考えすぎてると、自分がホントは何がしたいかわからなくなっちゃうよ。だからシンプルでいいの。梨沙ちゃんは助けてもらいたい。わたしは助けたい。なおっちだって、そういう気持ちがあるからそうしているだけだと思う。じゃなければ引き受けないって」
「まぁ……」
こればかりは西川の言う通りだ。
江南さんは、一応納得したらしく、「そ」といつものように返すだけだった。
俺と西川は、マンションから出て駅まで並んで歩く。西川は、どうでもいいことをしきりに話しながら、ころころと表情を変えている。
そういえば、俺は西川のことをあんまり知らないんだよな……。
俺は、何となく不思議な気持ちで見ていた。
どうやって江南さんと仲良くなったとか。家ではどんな風に過ごしているのかとか。自分のことを話さないという意味では、西川も江南さんも近いところがあるのかもしれない。
「どうした?」
返事をしない俺に、西川が怪訝そうな顔をする。俺は、なんでもないと答えて、また歩き始めた。
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