SS
SS① 大楠紗香と藤咲詩織のカラオケデート
――バカみたい
あたしがそう思ったのは、何年ぶりかの風邪をひいて、真面目な顔で謝っている兄の姿を見たときだった。熱が38度以上あるらしく、寒気に震えながら毛布を巻きつけて、むずむずする鼻をすすって、数回の咳を壁に吐きだしていた。タイミングの悪さを気にしているらしく、申し訳なさそうに目を細めている姿を見ていて、やっぱり思う。
――ほんとに、バカみたい
別にあたしは、風邪にかかった兄を責めたいわけじゃない。藤咲さんに謝ってほしいと思っているわけでもない。
ただ、ちょっと心配だっただけだ。
お母さんが死んでから、兄は変わった。家事も勉強も、体を壊してしまうほどのフル回転でこなすようになった。あたしもお父さんも責めてなんかいないのに、誰かに責めたてられているかのような必死さで、追い立てられるように働いていた。
「悪いな……藤咲にも謝っておいてくれ」
開口一番、出た言葉が、それだった。
すでに着替えてしまったあたしが言うことじゃないかもしれないけど、すべてを自分で抱え込もうとするその姿が哀れに思えてならなかった。
その感情が、あたしにこんな言葉を吐かせた。
「別にいいけど。というか、ほんとタイミングが悪いよね」
「それを言われると痛い……」
声がますますか細くなっていた。打たれ弱さには定評のある兄は、姑まがいの嫌味でもこたえてしまうらしい。兄の情けなさに感じ入るとともに、「バカみたい」という言葉が繰り返しあたしの脳裏を駆け巡っていた。
結局のところ、兄は今も昔も真面目過ぎるのだと思う。
確かに、兄に責任があるのは間違いない。けれど、兄を責める人はこの家の中には存在していない。遠くから好き放題論じるだけの親戚も、あたしたち家族に特別関与してくるわけではない。
兄は荒れていたときでさえ全力だった。引っぱられたゴムが弾け飛ぶみたいに、勉強漬けの日々の反動を、あれだけの熱量でもって喧嘩という形でぶつけていた。
手を抜くという言葉が、おそらく兄の辞書にはない。
今でさえ、十字架を背負いながら、寝る暇もないほど家事や勉強を詰め込んでいる。
……あたしは、そんな兄とは正反対だ。
手を抜けるところは抜く。あたしの辞書に全力なんて言葉はない。人生というフルマラソンのなかで、10キロや20キロの節目以外ではのんびりと歩いてきた。たまに走ることがあっても、疲れたと思えば絶対に無理をしない。兄のように全力を出しつづける人を、大変そうだな、と横目に見るだけだ。
「今日はお前らだけで楽しんでくれ。俺のことは気にしなくていいからな」
兄は、作り笑いを浮かべてそう言った。
目の前の人に対する不満や苛立ちをすべて飲み込んでから、わたしは口を開いた。
「わかってるって……。じゃあ、あたし行くから」
後ろ髪を引かれる思いがあったものの、あたしは迷うことなく踵を返した。ドアを閉じ、深呼吸をしながらもたれかかる。
――こんなことに悩んでる、あたしもバカみたい
* * *
「紗香ちゃん」
待ち合わせ場所に着くと、かわいらしい笑顔で手を振る人の姿が見えた。
藤咲詩織さん。
信じられないことに、兄の友達……らしい。
出会って1か月くらいしか経っていないけれど、藤咲さんはすごく魅力的な人だと思う。
「すみません……! 待たせちゃいましたか?」
「ううん。わたしも今来たところだから……」
……ああ、この笑顔に癒される。
女のあたしでも惚れ惚れしてしまうくらいに整った顔立ち。純真無垢な表情。この人と知り合えたことに関しては、兄に感謝しておきたいくらいだ。
「わ、紗香ちゃん。私服おしゃれだね。すごく大人びてる」
「そうですか?」
「うん! すごくいいと思う」
あたしは、スカートのすそをつまむ。藤咲さんの前で変な格好は見せられないと張り切って選んだ甲斐があった。最近買ったばかりの白のファーコートはあたしも気に入っていた。
「藤咲さんも……めちゃくちゃ可愛いですね」
「やだなぁ、もう。わたしなんて、服に着られているだけだから」
……ああ、この私服にも癒される。
特別おしゃれということではない。かなりシンプルな服装だと思う。
淡い赤のチェスターコート。足元には、黒ストッキングに包まれたきれいな足が見える。
でも、このシンプルさが藤咲さんの優しげな雰囲気と相まって、すごくイイのだ。
というか、藤咲さん、ほぼノーメイクなのにこの可愛さってどうなの?
「大楠君……じゃなくて、直哉君大丈夫そう?」
「大丈夫ですよ。あんなの、寝てれば治りますから。心配するだけ損ですよ」
「そう……」
訊かれることは予想していた。大変驚くべきことに、藤咲さんは兄に好意があるようなのだ。百回くらい疑ったうえでの結論だから、間違いないと思う。
今だって、兄のところに駆けつけたい気持ちが前面に出てしまっている。
――クソ兄も、いい加減はっきりしたらいいのに。
非の打ちどころのない人だ。女のあたしから見ても、性格も容姿も完璧だ。藤咲さんの今後を慮ると結ばれてほしくないが、口出しするべき事情がない以上、ひそかに応援することしかできない。
「……出かける前に、兄と話しました。藤咲さんに伝言を頼まれてます。『今日は行けなくて非常に残念だった。この埋め合わせは必ずする。二人きりでもよければ、今度予定を作らせてくれ』とのことです」
「ふ、二人きり!?」
もちろん、二人きりのくだりは嘘だ。けれど、これだけ強引にデートでもさせなければ、二人がくっつく未来が見えない。江南さんというスーパー美人から引き離すことも考えると、性急だとは思わない。
「な、なんで大楠君はそんなこと急に!?」
「あれ? 藤咲さんと兄は付き合ってるんじゃないんですか?」
「そんなことないよ!」
今の藤咲さんの状態を漫画チックに表すのであれば、目には渦巻、頭のうえからは湯気が出ているような状態だ。実際のところは、目を泳がせながら、顔を真っ赤にさせているだけなんだけど。
こんなに可愛い人に思われてるのに、未だにはっきりさせない兄が理解できない。
「ま、あたしは兄に頼まれて伝えてるだけなので。詳しいことが聞きたければ、兄に直接訊いたほうがいいですよ」
あとで、兄には口裏を合わせるよう仕向けておこう。
「紗香ちゃん、ありがとね」
「いえ、別に」
藤咲さんを応援するために嘘をついている身としては、その感謝を素直に受け取ることができない。
「付き合っていないのだとしても、将来的に兄と藤咲さんが付き合ってくれると嬉しいです。あのどうしようもない兄ですから、藤咲さんのように良識があって、優しさがある人でないと管理できないと思います」
「管理って……大楠く――直哉君はすごくちゃんとしてると思うけど」
「いやぁ……」
確かに、外面は良くなっている。けれどあの兄は、放っておくととんでもない暴走をかます危険物だ。兄はやたらとあたしを子ども扱いするけれど、兄も兄でどうなのかなと思う部分が多い。
「そのうちわかりますよ。それよりもそろそろ行きませんか?」
「あ、そうだね! じゃ、ええと、あっちのほうだね!」
兄の話題を切り上げたあたしたちは、その足でカラオケ店まで向かう。今さらだけど、藤咲さんと一緒にカラオケに行くことにドキドキする。
入ったのは、友達と行くことの多いチェーンのお店。曲のバリエーションはあまり多くないけれど、スイーツの品ぞろえがよく料金も良心的なため重宝している。
受付を済ませたあと、指定された3階の部屋に行く。
「寒いので、暖房付けときますね」
「ありがと。コート預かるよ。掛けておくから」
藤咲さんのコートの下は、タートルネックの白ニットだった。でも、やっぱり藤咲さんが着ていると愛らしさがものすごい。
「藤咲さんは、普段どういうの歌うんですか?」
「えーと、ちょっと他の人よりも古い歌が多いかも」
照れくさそうに笑っている。萌え。
「お父さんがね、昔流行した歌を流していることが多くて。その影響で、わたしもそういう歌ばかり聞くようになったの。最近の流行曲には詳しくないんだ」
「じゃあ、Z〇RDとか、T〇Fとか……?」
「あ、もちろん聴くよ! 紗香ちゃんも詳しいんだね」
「あたしの父もよく聞いてて……」
ただし、お父さんの場合は下手糞な鼻歌を散々聴かされるからだ。自分から、昔の曲を聞こうとは思わない。
「わたしが一番好きなのは、WAN〇Sってグループなんだけどね。紗香ちゃん知ってる?」
「一応聞いたことは……。でも、あたしの父は、女性アーティストの曲ばっかりなんです」
モー〇のファンだったらしく、全盛期のすごさなどを熱心に語られたこともあった。
「じゃあ、E〇Tも、kir〇roも、わかったりするの?」
「もちろんです。というかそこらへんは、あんまり古くないと思ってます」
「意外と知らない子も多いんだよ……。紗香ちゃんが知っててくれて嬉しい! それなら、わたしも遠慮せずに好きな曲入れちゃうね」
「あたし後でいいんで、先に入れちゃってください」
「いいの? 先に選んじゃうね」
しばらくして、画面に映ったのはドリ〇ムの「LOVE LOVE LOVE」。あたしも知っている有名な曲だ。チェンバロとかいう楽器の音が控えめに響き、徐々に様々な楽器の音色と合わさって、特徴的な旋律をなす。藤咲さんは、両手でマイクを握って歌い始めた。
「……」
何度も聞いた歌詞。テレビや動画サイトで幾度となく耳に入ったから、そこまで詳しくないあたしでも口ずさめる。いい曲だなと再確認するのと同時に、妙な引っ掛かりを覚えた。
たぶん、あたしが勝手に藤咲さんの気持ちを分かった気になっているからなんだろう。
藤咲さんの歌声は澄んでいる。ビブラートとか、しゃくりとか、余計な技術をはさまず。流れてくる音楽に合わせてただ一生懸命に歌っている。
だからこそ、その歌声に乗せられた感情が、伝わってくるように錯覚してしまう。
「……」
あたしは、横の髪をいじりながら、たゆたうように響くその歌声に耳を傾ける。
なんか、さ。
あたしが思っていた以上に、あたしは藤咲さんのことが気に入っているのかもしれない。
藤咲さんの笑顔とか。
藤咲さんの優しい声音とか。
あたしのことを、すごくイイ子だと言ってくれるところとか。
全部が好きだ。藤咲さんみたいな人に憧れるし、もっと一緒に居たい。
曲はすでに終盤に差しかかっている。そろそろ、あたしも曲を入れなきゃと思って、デンモクに手を伸ばす。
あんな兄に対しての恋であっても、藤咲さんにはその恋を叶えてもらいたい。
喜んでいる藤咲さんの姿をもっと見てみたい。
だから、もっとしっかりしてよね。
――バカ兄貴
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更新お待たせしてしまって申し訳ありません。
作業が一段落したので、今後は更新ペースを速められるかもしれません。
しばらくはSSの投稿となります。
今後ともよろしくお願いいたします。
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