第63話 風邪
自分の心の内を隠して、結論を先延ばしにするのはやめるべきだ。
俺が思ったのは、そんなことだ。
藤咲だって、自分の気持ちを伝えるのに勇気を振り絞ったはずだ。なのに、俺だけが安全圏にいて黙り込んでいるのはアンフェアだ。
明日。藤咲や紗香とカラオケに行く日。
全部、打ち明けてしまうことを決めた。
過去のこと。何に悩みつづけているか。そのうえで、自分の結論をはっきりと言おう。
ずっと自分の心情を知られてはならないと思っていた。こんな醜い自分を知られてはいけないと。でも、それは間違った選択なのかもしれない。
そんな決意のもとに、翌日を迎える……はずだった。
しかし、そうはならなかった。それには訳がある。
「ゲホッ、ゴホッ」
迎えた朝。俺は、ベッドに横になりながら咳きこんでいた。
手で口をおさえて、鼻水をすする。
視界がぼんやりとしている。頭が枕から離れなかった。
ぶるっと体が震える。
――クソ
喉が痛い。体を起こそうとしても、ベッドから出ることに強い抵抗感がある。
まぎれもなく、体調不良だ。今までのことを考えると、おそらく江南さんや江南母から移されたのだと思う。体調管理には自信があったから、大丈夫だと高をくくっていた。
体調を崩すなんて何年ぶりだろう。
少なくとも、母が死んでからは一度もなかったと思う。毎日手洗いうがいをちゃんとしたし、規則正しい生活になるように自分を律していた。栄養バランスを考えて料理をし、間食はしないように心がけていた。
――油断した。
体調にいくら気を使っても、ダメなときはダメだな。
朝ご飯を作ること。紗香と一緒に出掛けること。藤咲と会って、いろんなことを話すこと。今日やるべきことを思い浮かべるが、どれもできる気がしなかった。
結局、俺は親父に家事を任せて、安静にすることに決めた。
藤咲たちには申し訳ないが、今日は二人で行ってもらおう。
紗香は、約束の時間の30分くらい前に俺の部屋に来た。
「――藤咲さんにはもう伝えておいたから」
よそ行きの格好に着替えてある。カラオケの目的は紗香と藤咲が会うことだ。俺がいなくても、中止する理由はない。
俺は、一度うなずいた。
「悪いな……藤咲にも謝っておいてくれ」
「別にいいけど。というか、ほんとタイミングが悪いよね」
「それを言われると痛い……」
こんなことを言っているが、責める気があるわけじゃないだろう。
「今日はお前らだけで楽しんでくれ。俺のことは気にしなくていいからな」
「わかってるって……。じゃあ、あたし行くから」
そう言って、紗香は俺の部屋から出た。
俺は、ベッドの脇に置いてあったスマートフォンを手に取った。それから、ラインを開いて、メッセージを打つ。
大楠 直哉:ごめん。紗香からも聞いてると思うけど、熱が出ちゃった。この埋め合わせは必ずする。
頭がぼーっとする。
画面を見ているのもしんどい。送信できたのを確認するや、すぐにスマホを置いた。
俺は、目をつむる。
……一日中、休むなんてどれくらい久しぶりだろう。
4年前のあの出来事から、自分を戒めて生きてきた。余計なことを考えなくて済むように、勉強も家事も一心に取り組んできた。のんびりしている暇があるなら机に向かった。そのほうが、俺にとっては楽だったから。
覚醒と睡眠をこまめに繰り返すような時間。
眠気と苦しみが綯交ぜになっている。
足や腕の筋肉が弛緩する。五感がおぼつかず、自分が起きているのか寝ているのかもわからなくなってきてしまった。
壁に貼り付けられた紙が揺れる音。
暖房の暖かい風。瞼の裏にじんわりと広がる涙の膜。
少しずつ、眠気と苦しみの拮抗から、眠気の方向へと傾く。
時間がゆったりと流れている。自分の呼吸音が徐々に遠ざかる。
意識が途切れようとしたとき、急に部屋の奥からがちゃりと扉の開く音がした。
――?
半分目を開きながらそちらに目を向ける。が、焦点が合わない。
ドアの付近に誰かがいる。
――誰、だ?
一人だけだ。俺の方を見て立っている。
ぴんと伸びた背筋。白い肌が、顔や腕のあたりを覆っている。
懸命に目に力を込めた。虫眼鏡を上下させたときみたいにピントが不安定だ。
その人は、ゆったりとした足取りでこちらに近づいてくる。ぼやけた視界に映るその姿は、紗香でも親父でもない。そばに立たれたとき、その下半身を覆うものがスカートであることに気がついた。
手を伸ばせば届きそうな距離にいる。でも、未だに誰かがわからない。
声が聞こえてくる。
(ほ……だ……)
しかし、何を言われているかは判別できない。
何かを答えようと口を開いたものの、気道を通ったのはか細い吐息だけだった。
(こう……わ……めん……)
言葉はつづいている。俺は、困惑しながら、耳を傾けていた。
誰だか知らないが、この部屋に入られてしまった。張り紙だらけで、勉強道具ばかりの散らばるひどい部屋に。こんなところで勉強していると知られたくなかった。けれど、目の前の人は、そんなことを気にしている様子はなさそうだった。
バラバラになった言葉が、間断的に俺の耳に届けられる。
(……で、いつ……の)
自分の意志とは裏腹に意識がさらに遠のく。
俺の前に立ったその人の姿が薄い。懸命に散らばった意識をかき集めて、目に力を込める。顔はのっぺらぼうに見えるが、髪の毛の色がわかる。茶色だ。肩のあたりまで伸びている。いったい誰だろう。自分の頭も正常に機能していない。声はつづいている。何を言っているか理解できないけど、その響きが心地よく感じた。ふんわりとした声音。陽だまりがベッドのわきに浮かんでいる。その声音がさらに俺の眠気を誘い込む。さっきまで感じていた気分の悪さがなくなっていくような錯覚がある。何かを言わなければ。そんな使命感は眠気に押しつぶされてしまう。声がますますふわふわと、波打つようになる。瞼が、少しずつ俺の視界を覆っていく――。
我慢の限界だった。意識の糸が、もうすぐ切れそうになる。
最後の最後。瞼が閉じられる寸前で、俺は心の中で疑問符を浮かべた。
一瞬だけ、その人の顔がはっきりと見えたのだ。
その顔は、最近ずっとよく見ていたもの。けれど、いつもとは違った優しげな表情で、俺に語りかけている。
俺は、声も出さずに呼びかけた。
――江南、さん……?
* * *
どれだけ眠っていただろうか。急に意識が浮上してきて、自分の体に戻ってくる。
瞼を開いた。
体を起こす。
静かだった。寝る前の光景が嘘のよう。そこには誰もいなかった。
――あれ?
時は夕方。窓の外が赤らんでいて、葉のない枝が風に揺られている。
自分の部屋の中。誰かの侵入を許したとは思えない様子。目の上に垂れてくる汗をぬぐいながら、俺は、部屋にぽっかりと空いた空間を見ていた。
なんの痕跡もない。
記憶さえもおぼろげになっている。
かすかな記憶の残滓だけが、ここに誰かがいたことを告げていた。
俺は、右手で頭をおさえた。
……夢、だったんだろうか。俺が
だって、あんなことが起こるはずはない。江南さんが、風邪をひいた俺のためにわざわざ様子を見に来るなんてことはありえない。そもそも、江南さんは、俺が風邪をひいたことなど知らないはずなのだ。
そう考えると少し落ちついてくる。
どうやら、少し体調がよくなったようだ。寒気もだいぶ減退している。
部屋を出た瞬間、紗香と出くわした。ちょうど帰ってきたところらしく、よそ行きの格好のままだった。
「あ、クソ兄……」
「意外と早かったな。楽しめたか?」
「うん」
紗香は俺の額に手を押し当てる。それから、「まだ熱いね」と眉をしかめた。
「これでもだいぶ良くなったけどな。藤咲はなんて?」
「いや、特に。心配はしてたけど。次こそは3人で来たいねって感じ」
「そうか……そうだな。埋め合わせもしないとな」
「別に仕方ないことでしょ。じゃ、もう着替えるから……」
移されたくないのか、さっさとその場を離れていった。当然の反応だろう。下に降りて、水で口の中を潤してから、自分の部屋に戻る。
俺は、ベッドのうえに置いていたスマホをつかんだ。画面を開いたものの、特に通知は来ていない。
――そういえば……
寝る前にラインメッセージを送ったことを思い出す。
すでに返信が来ているだろうか。
ラインを開く。が、誰からも連絡はなかった。藤咲は、早めに返すイメージがあったから、まだ気づいていないだけだろう。
と、そこで俺は首を傾げた。
――あれ?
違和感。そして、その正体はすぐにわかった。
……今日送ったはずのメッセージがなかった。
寝る前に、藤咲に謝った。間違いなく、そうしたはずだ。
何度か開いては閉じを繰り返すが、それでも出てこない。あれすらも夢だったんだろうか。
会話履歴を閉じて、スマホをスリープにしようとした途端、俺はあることに気づいた。
(ごめん。紗香からも聞いてると思うけど……)
……俺の記憶通りの文が、画面の一番上に表示されている。
合わせて、とある事実に気づいた。
……そのメッセージは、江南さん宛に送られていた。
思考が凍り付く。すぐには、自分でも状況がつかめなかった。
慌てた俺は、その会話履歴を開く。
大楠 直哉:ごめん。紗香からも聞いてると思うけど、熱が出ちゃった。この埋め合わせは必ずする。
何度見ても、現実に変わりはない。藤咲ではなく、江南さんに送られている。
確かに、意識がもうろうとしていた。とにかく文章を作ることに精いっぱいだったから、誰に送ったかまでは確認できていなかった。まさかあのとき、俺の指は藤咲ではなく、江南さんのアカウントを選んでいたのか。
既読がついている。江南さんが、俺のこのメッセージを読んだということだ。
寝ていたときとは別の種類の汗が、じんわりと浮かぶ。
間違えた旨を伝えなければと思うのと同時に、俺の思考が別の方向に動きはじめる。今日起こったこと。夢みたいな出来事のことを……。
――まさか。
風邪のことを知らないはず。でも、このメッセージを見て、江南さんはそのことを知ったのではないだろうか。
つじつまが合ってしまう。本当に、あれは現実だったのか。江南さんは、本当に俺の家に来たんだろうか。
――でも。
一つ、疑問が浮かぶ。
どうしても理解できないことがあった。
俺が、江南さんと関わるようになったのは、あの説教のときからだ。それまでは、会話すら交わしたことはない。小さいころに仲が良かったなんてこともない。そもそも、江南さんと俺が同じ学舎になったのは高校からだ。
――どうして、江南さんは、俺の家の場所を知っていたんだ?
いくら考えても、その疑問に対する答えは出ない。
糸口すら見つけ出すことができなかった。
窓の外から、子供の笑い声が聞こえてくる。
日曜日。冬の夕暮れ。徐々に冷えてくる部屋の中。
俺は、一人きり、ベッドのうえに座り込み、延々と頭を悩ませることになったのだった。
《第二章 完》
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あとがき↓
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