第62話 兆し

「ええと……」


 瞼の裏が痛くなってくる。自分の紺の靴下が、足の動きに合わせて蠢いている。


 やっぱり迷惑だっただろうか。自分が正しいと思っていることであっても、伝えるべきかどうかは別問題だ。勢いに任せて言ってしまったが、すでにその衝動はなくなっている。


 つむじのあたりに強い視線を感じるけれど、もう顔を上げることができそうになかった。


 そのとき、俺の足のまえに、江南母の足が近づいてきた。この寒い時期にもかかわらず裸足だ。青白い血管が浮き上がっていた。


「なんとなく、わかったわ……」


 降り注ぐ声に、俺は反応することができない。


「顔を上げてちょうだい……」


 おそるおそるだが、そうした。大きく息を吸いながら目線を持ち上げる。

 きっと今の俺はひどい表情だろう。


「梨沙に対しても、そんな感じで話したのかしら?」

「……え?」

「きっと……梨沙を変えたのもあなたなんでしょう?」


 気づけば、あれから2か月近く経過している。俺にとってのこの2か月は、不思議な時間だった。今回の江南家の掃除もそうだ。こんなにも他人のことを気にかけるなんて初めてのことだった。


 自分の言葉に力があるなんてうぬぼれはない。なぜか江南さんを変えたあの説教と同様の効果を発揮するなんて思ってもいない。でも、積み重ねが人を動かすこともあると知っている以上、何もしないなんて選択肢はなかった。


 江南さんも、キッチンからこちらに戻ってくる。


「やっぱり、そうなの、ね……」


 がたんと崩れ落ちるように、椅子に座りなおした。江南母の髪には、いくつも白髪が混じっている。俺は、大丈夫ですか、と声をかけた。


 しかし、江南母はそれに答えず、キッチンカウンターのうえに置かれた卓上カレンダーのほうを見ている。さっき江南さんが倒したままだ。


 膝の上で、片手でもう片方の手を包んでいる。


「もう、どれくらい経つのか……。それすらもうわからない……」


 江南さんと江南母が共有する過去を俺は知らない。


「全部壊れてしまった。そして、壊れる前と後をよく比較する。比較って、たぶん、人生で一番残酷な行為ね。足りていないものが、はっきりと見えてしまうから。そして、もう手に入らないものを求めようとしてしまう……」


 その気持ちは俺にもわかる。


「いつも考えてしまう……。壊れる前に戻れたらどれだけいいことだろうって。そのことを考えると胸が苦しくなって、頭が痛くなってくる。頑張ろうとしても、ふとしたときに過去がフラッシュバックしてしまう……」

「はい……」

「今いる場所が、本当に正しかったのか。ぽつんと一人で立つと、不安になる。そのとき、びっくりするくらい心が空っぽになる。梨沙が学校に行くとわたし一人でしょう。よく考えてしまった。考える時間だけはいっぱいあったから……」


 さらに、江南さんはどんどん母親との距離を空けるようになった。であれば、余計に江南母にとっては苦しい時間がつづいたわけだ。


「きっと、そういう意味では、わたしと梨沙は違うのね……」


 ようやく、視線が俺の前に戻ってきた。江南さんが「母さん」と言うと、首を横に振る。


 やはり、もう無理ということだろうか。あきらめるしかないのだろうか。


 俺の言葉への誠意なのか、すごく真面目に、俺に語ってくれている。

 だからこそ、これが江南母の嘘偽りない本心なのだとわかってしまう。


「さっきも言ったけど、若さって、本当に大事……。年をとればとるほど、思考が凝り固まっちゃうから……」

「はい……」

「今さら、自分のすべてを投げ捨てて、一からやり直そうとするなんて、わたしには……」


 切実だった。余計に絶望感が募る。


 俺が言わなくとも、すでに何度も前を向こうとしたはずだ。そのたびに頓挫して、今ここに留まりつづけている。俺がいくら後押ししたところで、意味なんかなかったのか……。


 もうこれきり会えないとしたら。きっと、この人は、ずっと過去の中で生き続けることになる……。そんな予感がした。


 諦めかけたとき、言われた。


「でも……ありがとう」

「え?」


 一瞬、体が動かなくなった。


 驚いた。


 お礼を言われるなんて思ってもいなかった。


 ぽかん、と呆けたように口を開けてしまう。


 お礼を、言われた? まさか……。


 自分の耳を疑ったが、江南さんも同様の反応をしている。


 そしてそれだけじゃない。江南母が、俺に向かって笑いかけていた。


「……」


 もしかして、これが、俺の言葉に対する、江南母の精一杯の返事なのだろうか。俺の言葉を聞くに値しない発言だと跳ねのけられたわけではない。この人を変化させるには至らないとしても、確かに江南母に受け止めてもらったのかもしれない。


 素直にうれしかった。


「い、いえ……」

「このわたしなんかのために、本当に、ありがとう……」


 過去を背負いながら前に進むのは簡単じゃない。すぐに前を向いてほしいなんて俺も思わない。


 でも、これは兆しだ。きわめて小さなことだったとしても、このことに意味がないなんてことはない。少しでも江南母にとって得られたものがあれば、最終的なゴールにたどり着く可能性が出てくる。


 これから先、いいことばかりじゃないだろう。今は落ち着いている様子だけれど、すぐにまた荒れてしまうことも考えられる。


 江南母から「憎しみ」が完全に消える日が来るとも思わない。


 俺の思うゴールに到達する日が来ない可能性も十分にある。


 だとしても、今は、これでいい。

 少しずつでいい。それで十分なんだと思う。


 何の希望もない状態では、目指すべき方向もわからない。けれど、兆しがあれば、そこに向かって進むことができる。たとえ、どれだけ遅くても。


 じんわりと、俺の胸の中で熱がたまる。


「……僕も、お礼を言わせてください。ありがとうございます」


 気づいたときには、そう言っていた。


 江南さんも江南母もきょとんとした顔をする。なんでお礼を言っているのか理解できないだろう。


 けれど、俺にとってこの会話は非常に意味のあるものだった。


 壊れたままの家具は、もしかしたらそのままでいいのかもしれない。俺は、自分の中で少しだけ自信が持てたような気がした。


「変わった子ね、コホッ……」


 咳をしながら、江南母が顔をそらす。


 失敗なんかじゃなかった。話してよかったと心の底から思った。


「すみません……」

「いや、いいの……」


 江南母は目を閉じた。


「……疲れたわ」


 そう言われて、俺はハッとした。ずいぶんと長くここに居すぎてしまった。もう夜も遅いし、迷惑になるだろう。


「あの、すみません。そろそろ帰ります……」

「そうね。あなたはそうしたほうがいいわ」


 すでに、7時半になっている。俺は俺のやるべきことがある。


 最後に挨拶をして、帰り支度を始める。


 リビングを出て、玄関で靴を履いていると、江南さんが後ろから近づいてきた。


「あんたさ……」


 斜めに立ち、横目で俺を見ながら言う。


「何?」


 つま先をたたき、靴の奥に押し込んでから立ち上がった。江南さんは、足元をもぞもぞさせながら、息を吐く。


「今日、言ってたことなんだけど……」


 いつもよりも声が小さい。言葉のつづきを黙って待つが、ちっともやってこない。しばらくしてから、江南さんはつぶやいた。


「……いや、なんでもない」

「……?」


 唇を指で挟んで、困ったような顔をする。いったいどうしたんだろう。わざわざ話しかけてきたのに。結局、江南さんは「今日はありがとう」とだけ言って、その場を去った。


 相変わらず、自分の考えを説明しない人だ。俺は、首をかしげるしかなかった。




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2章完結まで残り1話となります。

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