第61話 迷い

 ……この機会を逃すと、江南母に何かを言うことはできなくなる。俺は、自分の母親と会うことはもうできない。自分と他人は同じではないけれど、それでも江南母と江南さんが断絶することは避けたいという思いがあった。


 俺は言った。


「後ろを振り返ることは、そんなに悪いことでしょうか」


 予想外の言葉だったのか、江南母は少し驚いたようだった。背もたれに手をのせたまま、俺の顔をまじまじと見つめてきた。急に俺は緊張してきてしまう。


「あ、いや。急にすみません。でも、前に進むことと、過去をすべて振り払うことは違うような気がするんです」


 話しながらも、自分のなかにこんな考えがあったのだと気づく。勉強でも、誰かに教えるために言葉にすると、頭の中で自分の考えが整理されていく感覚がある。今の感覚はそれに似ていた。


 俺の中で、ぐちゃぐちゃだった思考が、明確な形をなしていく。


「江南さんのお母さんは、『もう自分のことを気にする必要はない』とおっしゃってました。江南さんが、前向きになり始めたのは事実だと思います。でも、過去のことをまったく気にしなくなったとか、別々の道を歩もうとしているということではないはずなんです」

「……若いわね」


 先ほど、江南さんを見ていたときのようなまなざしに変わる。


「本当に、過去のことを引きずっていたら、前なんて向けないわよ」

「そんなことはないと思います」


 はっきりとした口調に、江南母が眉をひそめる。機嫌を損ねてしまったかもしれない。でも、自分のこの考えは間違っていないという実感があった。


「過去の延長上に現在の自分がいる。その現実からは逃れることができません。いくら忘れようとしても忘れられないとおっしゃっていたように、ずっと記憶として残りつづけます。忘れようとすればするほど、何度も思い出して、くっきりと刻まれてしまいます」

「そうよ」


 江南母は、ため息まじりに吐き捨てた。


「だから、無理なのよ」


 椅子から立ち上がって、俺の近くまで歩み寄ってくる。細められた目。うんざりしたように、頬だけで笑っていた。


「もしかしたら、あなたにはわからないかもしれないけれど」

「そうかもしれません……」


 俺と江南家の事情は異なる。「憎しみ」という言葉が、どのような経緯から発せられているのかも知らない。


「けど、そうじゃないかも、しれません……」


 その一方で、全く重なっていないとも思わなかった。


「……僕も、過去につらいことがありました。絶対に、もう立ち直ることができないと考えるほどに、胸が痛くて、苦しくて、壊れそうなくらいだったときが……」


 そのとき、なぜか江南さんの肩がびくっと揺れた。それから、ごまかすように自分の肩を抱いた。目はあらぬ方向を向いている。


 俺はつづける。


「毎日毎日、学校にも行かずにふさぎ込んでいました。ご飯もろくにのどを通らなくて、頭の中が悲鳴を上げていて、涙すら出なくなって、このまま死んでいくんだと考えてました」


 自分がいま、どういう表情をしているかわからない。真正面から見せることが恥ずかしくて、顔をうつむけた。


 懸命に声を絞り出す。


「……でも、ある日、気づいたんです」


 二人から差し伸ばされた手。少しずつではあるけれど、立ち上がることができた。


「そんな過去を経た自分だからこそ、できることがあるのかもしれないって。昔の自分に戻るなんてことはできないけど、過去を受け入れたうえで、もう二度と後悔しないように精一杯のことをする。新たな目的ができたとき、少しだけ気持ちが楽になりました。そのときは、自分が前に進めているなんて、思ってませんでしたけど……。今考えれば、ようやく一歩を踏み出せた瞬間だったなと思うんです」

「……」


 俺の話を、江南母は黙って聞いている。


「僕は、過去を振り払うなんてことはできませんでした。でも、過去のことを前に進むための活力にすることもできると学びました。痛みがなくなったわけでもないけれど、徐々に新しい自分を生み出すことができたんです」


 このやりかたが健全かどうかもわからない。やがて無理がたたって、壊れてしまうときが来るかもしれない。


 だけど、あのとき、他に選択肢はなかった。


「だから、その……」


 急に、言葉が出てこなくなる。


 本当にこんなことを言ってよかったのかという不安が頭をもたげてくる。また、ぐちゃぐちゃになってしまった。


 俺はいつも迷ってばかりだ。結論を出そうとすると、思考が止まってしまう。


 情けない。本当に情けない。


 偉そうなことを言っても、自分自身がこの体たらくだ。口の中が乾いていて、つばを飲み込むとのどが痛む。額に汗が浮かぶ。


 ちら、と江南母の様子を確認した。


 江南母は、さっきまでとは違う、真剣な表情をしていた。


 ふと、俺はファミレスで江南さんに説教をしたときのことを思い出した。


 違う種類の表情だけど、その根っこにあるものが似ているような気がしていた。


 しばらくして、江南母が口を開いた。


「……そう」


 ごめん、と心の中で江南さんに謝る。もしかしたら、失敗してしまったかもしれない。

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