第60話 決別
全部食べてくれたことは、本当に良かった。だが、その変化がいいことなのか悪いことなのかわからない。今わかることは、江南さんの思いを一度飲み込んでくれたということ。そのあとどうなるのかは、ここから先の江南母次第だ。
またコップに手を伸ばして水を飲む。
江南さんは、ひたすらに江南母の言葉を待っている。
俺もまた、どうすることもできず立ち尽くすだけだった。
「疲れたわ」
そのとき、ようやく発せられた言葉はその一言だった。江南さんは逆にほっとしたようで体から力を抜いた。
「あ、じゃあ休む?」
「そうね……休みたいわね」
「わかった」
逃げるように食器を持って、キッチンに向かった。どうしても怖いらしい。なるべく目を合わせないようにして、食器を洗いはじめる。
「羨ましいわね」
水音にかき消されそうな声量だったが、それでも俺にも江南さんの耳にも届いた。
「わたしは、もう疲れてしまったわ……」
江南さんの手が止まる。キュッキュッと鳴っていたスポンジの音もやむ。
「本当に、もう疲れたの……。疲れて疲れてしょうがないから、ずっと寝ていたいわ」
「母さ――」
「よかったわね。もうこれから、わたしのことなんか気にしなくていいわよ」
江南さんは、水道の蛇口を上げる。水音が聞こえなくなる。
「若いといいわね。いろんなことに取り返しがつくもの。どんなことがあっても、若さからあふれ出るエネルギーが解決してくれる。ずいぶんと遅れたけど、こんな日が来ることも予想はしていたわ」
「……」
さっきからずっと、江南さんは顔を下に向けたままだ。
「責めてるわけじゃないの。当たり前のことだと思うわよ。もうだいぶ経ったものね。いつまでも、ふさぎ込んでいるほうがおかしいんじゃないかしら。あなたたちが考えているようにね」
「それは――」
つい、反論しそうになったが、この件について述べるべき言葉がないことに気づく。
もともと、そう考えていたのは事実だ。この家に起こった出来事について、どうにか解決に導きたかった。
でも、やはり、この人と俺は同じだ。
過去の楔に縛りつけられている。どんなに逃れようとしても、頭の中ではいつまでもひきずるべきではないとわかっていても、体が言うことを聞かない。過去があって、今があるという現実から、解放されることはできない。
「人はずっと怒りつづけることができないなんて嘘よ。忘れることができたとしても、思い出すたびに憎しみとか苦しみがふつふつと沸くの。そんな感情捨て去りたいのに、記憶がそうさせないの。だんだんと負の感情に支配されることに疲れ果てて、もうなにもかもどうでもよくなっていくの」
江南母の目が閉じられる。
膝のうえに置かれた手が強く握りしめられた。腕が少し震えている。
「そんなわたしみたいになるのは、あなたにとっても良くないことよ、梨沙」
再度開かれた目は、キッチンに立つ江南さんに向けられた。
「寂しいけれど、本当によかったじゃない。これは、嘘偽りない本心よ」
そして、またあの表情に戻る。
天井を見上げていたときと同じ、寂しそうな表情に。
ようやく、江南母の心情の一端を理解した気がした。
この人は、すでに諦めているんだ。
過去から逃れることを、とうの昔に諦めている。かつては、江南さんも同じだったけれど、二人とも同じ方向を向いていたけれど、もう江南さんは前に進むことを決めてしまった。
決別だと、江南母は感じ取ったのだ。
「いい出会いがあったのね。ちゃんと大事にしなさいよ」
それきり、口を閉ざしてしまった。
誰も何も言うことができない。
江南さんは、手に持っていた食器をシンクのまえに置いた。1年前から放置されているのだろう、昨年の卓上カレンダーがかたりと倒れた。
呆然とした様子の江南さん。こんなことを言われるなんて考えてもいなかったのだろう。
今回の料理の目的は、江南母を元気づけることだ。決別することを伝えるためなんかじゃない。元気づけるどころか、ますます丸まった江南母の背中を見て、悔しくて仕方がなくなったはずだ。
江南さんは、言った。
「違う。わたしは、ただ、母さんに少しでも栄養をと思って――」
「そんなことはどっちだっていいの。わたしにはわかってしまったというだけよ」
「何もわかってない。母さんのためにやったことで、これから二人で頑張っていこうっていう思いも込めて作ったつもりだったのに」
「ごめんね、梨沙。わたしは、あの人への憎しみを捨て去ることができないの」
江南母は、リビング全体を見渡す。
ここに来たとき、さらに悪化していた状況。カーテン、カーペット、テーブルのうえ、壊れたままの家具。結局、掃除だけで、根本的には直っていない。
さっきからの言葉と、目の前にある光景は、きっと一緒なのだろう。
「だから、ね。あなただけは、ちゃんとしていなさい。こういうことしか、もう言うことができないけど」
それから、ちょっとだけ笑った。
明らかに無理をしている笑顔だった。
「……そう」
肩を落とした江南さんは静かにそう言った。
また、食器洗いを再開する。蛇口から勢いよく出る水の音。同じところを何度も何度も擦っていることから察するに、まだ動揺が抜けていない。
俺は、迷った。このままにしていいのだろうか。自分は赤の他人だけど、自分の経験から少しくらい何か言えないだろうか。
もうこれで話は終わりだとばかりに、江南母が椅子を引いた。その瞬間、俺は自分を抑えることができなくなった。
「待ってください」
立ち上がろうとした体勢のまま動かなくなる。
それから、江南母は怪訝そうな顔をした。
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