第59話 寂しさ
初めて作った料理を食べてもらったときのことを思い返す。
レンゲが器に当たる音。口の中に移るときの緊張感。柔らかな時間。
これから、江南さんも同じ気持ちを味わうことになる。
江南さんの長い足が、少しずつ前に進んでいる。
空気の循環が悪いせいか、近づけば近づくほど淀んでいる。きっと、その頭の中ではいろんなことが渦巻いているだろうに、ペースが全く緩まない。
江南母が、眩しそうに目を開く。
「母さん、これ……」
お盆の上に、江南さんが作ったおかゆ。暗がりの中に湯気が埋まっている。
「……え?」
そのとき、江南母の顔に浮かんだのは、余裕の消えた戸惑いの表情。白目が浮き立つほど大きく目を見開いていた。
「本気……だったの?」
「母さんに、料理、作るって言ったでしょ。なんで驚いてるの」
キャビネットに江南母の背中がぶつかる。いた、っと顔をしかめた。
それから、唇を左手で触った。
「もしかして、母さん、あれからちょっと寝てた?」
「……そうよ」
キッチンに立っている間、江南母のほうからは物音が聞こえなかった。
「これを、わたしに……?」
「さっきからそう言ってる。わたしが食べるわけないでしょ」
お盆を食卓のうえに置いた。
江南母の肩にかかっていたショールがずり落ちる。掛布団を上半身から剥がして、おそるおそるおかゆをのぞき込む。
いたって普通のおかゆだ。卵がゆ。刻んだネギがその上に乗っている。
「風邪を早く治さないと……。あんまりご飯も食べられてないから、少しでも口に入れないと……。そう思っただけ……」
「梨沙が、料理、なんて」
俺の指示のもと作ったので、変なところはないはずだ。味も問題ないことを確認している。
「座って、母さん」
「……」
呆然としたままだ。
少し不安になってくる。今、江南母は何を思っているだろう。嫌な気持ちになっていたりしないだろうか。俺たちがしたことが、逆効果と言うことも……。
やがて、江南母が、おそらく長年使われていないであろう椅子に腰掛けた。椅子の後ろの足が布団にかかってしまい、不安定だが、あんまり気にしていない様子だった。その目は、ずっと目の前の料理に向けられたままだ。
その手が、ゆっくりと動いた。
レンゲはおかゆをすくう。徐々に江南母の口へと近づく。
「……っ」
食べた。唇を小さく開閉させながら咀嚼している。
そして、飲み込んだ。
「どう?」
不安そうに江南さんが尋ねるが、その問いに江南母は答えない。
食べている間、表情に大した変化はなく、何を考えているかわからない。だが、怒っているわけでも、まずそうにしているわけでもない。最悪の状況ではないことは明らかだった。
その手は、次の一口のためにまた動き出す。
次から次へとおかゆが江南母の口に入る。一口が小さいので食べるペースは遅いけれど、確実に器からは減っていった。
誰も言葉を発しない時間がしばらくつづいた。
俺は、二人を見ていることしかできなかった。
もうできることはすべてした。部外者でしかない俺は見守るしかない。
「……意外とちゃんとしてるのね」
半分くらいを食べたところで、江南母が言った。
「そりゃそう。いつも料理してるやつに手伝ってもらったから……」
「直哉君のおかげね」
それから、江南母が、江南さんに向かって、
「お水はあるかしら?」
「忘れてた。すぐ持ってくる……」
江南さんは冷蔵庫から2リットルペットボトルを持ってくる。お茶ではなく、ミネラルウォーターだった。この時期に冷たい水は体に悪いと思うが、そもそもポットを新調していないから使えないのだと思う。
コップに注がれた水を、江南母が飲んだ。
「ありがとう」
また、おかゆを口に運ぶと、のどに詰まらせたのか口をおさえて咳をした。
「ああ、もう……」
江南さんが、その背中をさする。
それに対して、江南母が拒絶するそぶりもない。落ち着いたところで、もう一回水を飲み、もう大丈夫だからとほほ笑んだ。
ちゃんと、全部食べるつもりみたいだ。
……たぶん、たぶんだけど。
これは、きっとすごいことなんだと思う。
なぜなら、江南さんの体が震えている。足が、腕が、唇が、小刻みに揺れている。
料理を作る前の絶望に瀕した顔ではない。今、目の前にある光景による感情の揺れ幅を体内で抑えきれていない。
江南母も、江南さんも、そういうことは言葉にしない。
わかりやすく表情にも出さない。
でも、これは、ものすごい変化なんだろう。
――からん、と音が鳴った。
江南母の手から、レンゲが離れた。茶碗の中は空。大きく息を吐いた江南母の目は、天井高くを見つめていた。
「……」
そのとき、ようやく江南母の顔に感情が浮かんだ。
すぐにはどんな感情なのかが理解できなかった。笑っているようで、笑っていない。顔をしかめているわけでもない。
不思議な表情だった。
喜び、悲しみ、苦しみ、怒り、期待、安心、不安……。いろんな言葉をその表情に当てはめていくが、どれもしっくりこない。
やがて、一つの言葉に思い至ったとき、俺の中でぴたりとはまりこんだ。
どうして、そんな感情になるのかはわからない。わからなかったからこそ、その言葉が思いつくのに時間がかかってしまった。
……この顔は、間違いなく、「寂しさ」を表しているのだと思った。
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