第57話 穏やかな時間

「じゃあ、この3つで野菜炒めを作ってみようか。どうすればいいかわかる?」

「……たぶん」


 江南さんは真っ先にたまねぎを手に取った。


 裏返したり、先っぽをつまんだりするので心配になるが、やがて、表面にある茶色の皮を剥きはじめた。


 俺はいつも先っぽと底を切り落としてから剥くが、どっちが先でも問題はない。


 江南さんは、表面の皮を剥いたあとに包丁を下ろした。


 たぶん、これは知識とかじゃないんだろう。おっかなびっくりやっているあたり、考えながら手を動かしている。今だって、この表面の皮はいらないんだろうとか、根っこのほうは切った方がいいんだろうとか、その場で判断したのだと思う。


 地頭の良さが現れている。


「よし」


 これ以上、特に排除すべき場所がないとわかったらしく、洗ったたまねぎをまな板の上に乗せた。


 まず、半分にする。


 それから片方を手に取って、切断面を下にした。端のほうから包丁を入れていく。


 ざくざくという音。


 ちゃんと正解にたどり着いた。手つきが覚束ないところはあるけれど、十分に合格点だ。


 だが、当然、罠が待っている。


「目、痛っ」


 江南さんが目を赤くしている。なかなかに珍しい姿だった。左手でちょくちょく目元をおさえている。


 俺であれば、すぐに切り終えることができるので、そんなにつらくはない。しかし、江南さんの今のペースだとなかなかきついだろう。


「ぼさっとしてないで手伝って」

「いやいや、包丁は一つしかないだろ? 俺にはどうすることもできないから」

「腹立つ」


 それでも替わってくれとは言わなかった。


 数分後くらいに、たまねぎの半分が切り終わった。もう半分までは要らないので、ラップに包んで冷蔵庫に戻した。


「この調子、この調子。次、行こうか」

「じゃあ、ニンジン」


 ニンジンを洗ってから、またさっきと同じように上から下から眺めている。


「なるほど……」


 江南さんは、そうつぶやくやいなや、根っことヘタを取った。そして、そのままニンジンを細かくしようとする。


 そこで、俺は江南さんの腕をつかんだ。


「ストップ」


 予想通りと言えば予想通り。しかし、このことを知らないということは、本当に家庭科の授業をサボってきたんだなと再確認する。俺の記憶の片隅で、家庭科室の端で腕を組んで立つ江南さんの姿が思い出された。


「何か忘れてない?」

「……いや、わかんないって。ちゃんと教えて」

「皮。剥かないと」


 再びニンジンに視線を戻す江南さん。


 ぱっと見、ニンジンは皮があることが分かりづらい。もっとも、皮つきの状態で食べる人もいるらしいが、剥く方が一般的だろう。衛生面も保証できないし。


 ピーラーをつかみ、江南さんからニンジンを奪い取る。


 さっと少し剥いて見せた。


「ほら、こんな感じ」


 俺からピーラーを受け取った江南さんは、ち、と舌打ちをしてから俺と同じように手を動かしはじめた。


 ピーラーの下に手を置くと危ないので、注意を促す。


「これでいい?」


 丸裸になったニンジンを見せながらそう訊いてきた。俺はうなずく。


 これも全部は必要ないので、体積が半分になるところで切った、今回使う部分だけを江南さんに渡す。


「あんた、ホントに性格悪いよね。ちゃんと予め教えてくれればよかったのに」

「ごめん、まさか知らないとは思わなくて」

「なんか言った?」


 さすがに包丁を突き付けたりしないけれど、包丁を持った江南さんに言われるのはなかなかの破壊力がある。


「わかったよ、ちゃんと教えるから……」


 ニンジンの切り方はいろいろある。今回は短冊切りを教えることにする。


 江南さんのすぐ横に立って実演する。俺の手元をのぞきこむ江南さん。今さらながら、だいぶ距離が近いことに気がついた。息遣いまで聞こえてきそうだ。


 長いまつげ。まっすぐ流れている髪の毛。なぜか急に緊張してきてしまう。


 ――すごいシチュエーションだよな、これ。


 女子の家に訪れて、一緒に料理を作っている。今までそんな色気のある雰囲気じゃなかったからそこまで気にしていなかったけど、こうやって傍に並んでいると改めて意識させられる。


 なんとも言えないゆったりとした時間。


 窓の外はどんどん暗く、静かになる。風の音もない。エアコンの駆動音も、江南母が身じろぎする音も、今はあまり聞こえてこなかった。


 ただ、包丁がまな板に当たる音だけ響く。


「と、こんな感じかな」


 俺の表情など見向きもせずに手元を見ていたから、俺の緊張にも気づいていないはず。


 実際、江南さんは真剣な顔で、俺の手つきを再現しようとしていた。


 だから、俺も今はそんな状況であることを忘れて、教えることにまた意識を傾ける。


「そうそう、あ、ちょっと危ないから、こうして……」


 ……悪くない時間だ。俺は素直にそう思った。


 俺の言うことを素直に聞く江南さん。俺も、紗香に何かを教えるときのように、ただ目の前の相手のことだけを見て、必要なことを伝えていく。


 もしかしたら、楽しかったのかもしれない。


 いつのまにか、たまねぎもニンジンも、キャベツでさえも、下ごしらえが完了していた。俺も江南さんも、ふぅ、と一息ついた。

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