第56話 調理開始

6/2に55話を改稿しました。

話の流れが少し変わっています。


申し訳ありませんが、改稿前をお読みいただいた方は、改稿後のものを読み直してからこちらに進んでいただけると幸いです。


――――――――――――――――――――――


「ごめんなさいね。照れているのかしら。あんまり素直な子じゃないけど、仲良くしてあげてね」

「はい。えと、別に照れているわけじゃないと思いますけど……」

「そう? まあいいわ」


 ここで何のフォローも入れないと後で何を言われるかわからない。


 江南母は、穏やかな表情を崩さないまま奥へと引っ込んでいった。体から力が抜ける。


 人間の心なんてそう簡単にはわからない。改めてそう感じた。


「……どうする?」


 そう訊きながらも、もはや逃げ場なんてないことは理解していた。

 すでに、料理を作ることは伝えてしまった。何もせずに帰ったら不自然だ。


「……あんたはいいの?」

「いいも悪いも、もともとそれが目的だし。別に、そんなに気にしてないよ」

「意外と図太い」


 江南さんは、さっさとキッチンのほうに歩いていく。すでに時刻は午後5時を越えていた。冬至も近いので、窓の外はすでに暗くなっている。薄暗いリビングのなかで、キッチンに灯された光が心もとなく見えた。


 俺も、江南さんにつづく。


 キッチンには、江南さんに聞いた通り調理器具がそろっていた。フライパン、鍋、包丁、まな板、調味料などなど。見渡す限り、足りていないものはない。これであれば、すぐにでも調理を始められそうだ。


 江南さんは、ガラのない無地のエプロンを体に巻き付けた。俺にも無言で差し出してくるので、俺もそれを身に着ける。俺が来ると分かっていたから、二つ買っておいたのだろうか。


「一つはわかってるけど、他にも作るものある?」

「……正直そこまでは考えてない。いろいろ作れるように準備はしておいたから、どうにかなるとは思うけど……」


 冷蔵庫の中身を見せてくれる。


 冷蔵庫は特に新調していないようだが、きれいに磨かれていた。使い始めたばかりだろうから物はあまり多くない。それでも、野菜室にはいろんな種類の野菜が少しずつ入っている。


「作った料理はさ、江南さんも食べる、んだよね」

「そのつもり」

「なるほど」


 もちろん、メインは江南母に対してだ。しかし、せっかくこの時間に料理をするのであれば、一人分だけではもったいない。作ろうとしている料理は、普段の江南さんが食べるようなものじゃない。だから、普通の料理も用意する必要がある。


「だいたい分かった。せっかくだし、これからも役に立ちそうな基本的な料理を作っていこうか。その方が江南さんのためにもなると思うし」

「なんでもいい」


 江南さんの腕がわからない。なるべく簡単な料理にしたほうが無難だろう。


 俺は、さっそく手を洗う。さすがに江南さんもそこらへんの常識はあるようだ。俺が言わなくても、勝手にまな板や鍋、包丁を洗ってくれる。


 ひとまず、最初に決めていたほうから始めよう。


「お米はある?」

「ほい」


 渡されたのはパックのお米。レンジでチンして食べるタイプだ。


 ひとまず二つほどレンジに突っ込んだ。江南母が食べるにはちょっと量が多いかもしれないが、残ってもどうにでもなる量だ。


 俺は、野菜室からネギを取り出した。


 よく洗ってから、まな板の上にのせる。


「さて、切ってみようか」


 江南さんに前を譲る。


 ネギを切るなんてそう難しいことじゃない。輪切りにさえすればちゃんと形になる。


「……」


 大きく息を吸い込んでから、江南さんが包丁を握った。あんまり慣れていないらしく、包丁の平や刃先をまじまじと見つめている。それからしばらくして、ネギを左手でつかみ、右手に握った包丁をゆっくり下ろしていく。


 タン


 根っこを切り落とした。さすがに食べられないのは知っているようで、根っこの部分をまな板の端に寄せた。


 タン、タン、タン


 一回一回丁寧に。しかし、確実にちょうどいい大きさでネギが切られる。小学生のときに教えられる「左手は猫の手」も守っているし、包丁の動きもちゃんと前後に動いている。


 うちの家族とは大違いだ。


 ちなみに、親父は包丁の使い方が致命的に下手で、上下に大きく動かすクセに全然野菜が切れない。紗香は、親父よりもマシではあるが、手元をしっかり見ないのでちょくちょく危なっかしくなる。


 それと比べれば、十分に上出来だと言える。


 何回か包丁を下ろしたところで、江南さんが振り返った。


「どれくらい必要?」


 俺は、江南さんの背後からのぞきこむ。


「この倍くらいかな」

「わかった」


 規則正しく、小気味いい音が鳴る。真剣さが伝わってくるようだった。


「これでどう?」

「とりあえず、おっけー」


 切られたネギを集めて器に乗せる。まな板をまた洗いなおして、調理台のうえに置いた。

 

 ちょうどレンジが鳴ったので、米をそこから出してキッチンの端の方に運ぶ。


「ふー、疲れた」

「いや、早いよ!?」

「包丁なんて使わないから。こういう刃物を持っているだけで精神使う」

「う~ん。まぁ、初めはそんなものか」


 あんまり凝りすぎてもしょうがないし、一つ目の料理の下準備はこれでいいか。


 次に、俺は別の野菜を取り出した。


 キャベツ、ニンジン、たまねぎ。普通に料理をしていたら、必ずと言っていいほど使うことになる定番の野菜だ。俺がいるうちに、これらの野菜の切り方を教えておきたい。

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