第55話 再燃(20/6/2改稿)

改稿完了しました。


カクヨムコン受賞しました。↓

https://kakuyomu.jp/users/dacadann/news/1177354054897766106


―――――――――――――――


 追いついたあとは、なんやかんや言い合いながら江南家に足を踏み入れる。


 江南家の玄関に立つといつも緊張する。独特の雰囲気のせいか。それとも、人の家に入ることに慣れていないせいか。


 廊下にはまだあのときの傷が残っていた。色の表面が剥げている。


「ん? どうしたの?」


 動きが止まった俺に、怪訝そうな表情をする江南さん。


「いや、なんでも」


 俺は、すぐに靴を脱いだ。


 今さらながらすごいところまで入りこんだものだ。あのときの光景は衝撃的だった。


 血走った目。人を威圧するような大きな声。


 そして何より、廊下を傷つけても一切気にしていなかったこと。


 あのときの絶望感と比べて、だいぶ浮上することができた。一歩一歩慎重に進んでいった結果だ。ボタン一つのかけ違いで、結果は大きく変わっていたかもしれないことを考えると本当によくやったなと自分をほめたい気持ちになる。


 江南さんがリビングにつながる扉を開く。


 すぅっと冷たい風が肌に触れた。それでもそこまで寒いわけじゃない。ちゃんと暖房が機能している証拠だ。


 ただ、それとは別に俺の体が少し震えてしまう。


 ――?


 俺の脳は、一瞬で何かしらの違和感を嗅ぎとった。しかし、すぐにはその違和感の正体に気づくことができない。


 でも、それでも何かが違っている。


 俺は、リビングの内部にじっくりと目を配った。


 ゴミは、もうほとんどない。キッチンも、それ以外も、ちゃんときれいになっている。ボロボロの家具はそのままだけど――と考えたときに、その正体を理解した。


 ――あれ?


 なんで、と疑問に思った。


 たとえば、窓際のレースカーテン。かすかなつなぎ目で上部と下部がつながっていた。しかし、今は完全に分断され、下部が床に落ちてしまっている。


 たとえば、床に敷かれたカーペット。ちゃんと端から端まで伸ばされていたはずなのに、ところどころ丸まったり、裏返ったりしている。


 たとえば、食卓のうえ。何も置かれていなかったはずなのに、割れた食器の破片がなぜかばらまかれている。破片はすべて回収したはずだから、新たに割られてしまったことになる。


 隣の江南さんもそのことに気づいたようだ。


「まさか……」


 江南さんは、苛立ちまじりに髪の毛をくしゃくしゃにする。その視線の先には、いつも通り食卓の反対側で寝ている江南母がいる。こんなことをする人間は、一人しかいない。


 と、そのときだった。


「――あら?」


 俺たちの足音や扉の開閉音で気づいたのかもしれない。


 奥のほうから、いつもの声が聞こえてきた。


 まもなく、そこにいる江南母が立ち上がった。相変わらずのパジャマ姿で、薄いショールを肩にかけなおしながら俺へと近づいてきた。


 表情。動き。声色。すべてが、何も変わらない。


 でも、俺にはわかっていた。リビングにおけるちょっとした変化。それは、この人が行ったものだということが。


 状況はすべて好転していると思っていた。それは、この部屋と同じ。ずっと江南母が大人しかったし、良い母親としての姿も見えたから、徐々に徐々に江南母の心境もきれいに整理されていくと予感した。


 とんだ思い上がりだ。そんなに簡単に解決するのであれば、とうに江南さん一人でどうにかしていただろう。


 前進と後退を繰り返す。前進だけで済むなんて、そんな簡単なことあるわけない。


 江南母は、俺の前に立って笑いかけてきた。


「あらあら? 今日も来たのね、直哉君」

「はい。すみません。急に来てしまって……。お体大丈夫かなと……」


 とっさに返事ができたのは、いい子でいようという本能のおかげだと思う。


「ふふ。もうほとんど大丈夫よ。あなたたちのおかげかしら。熱も下がってきたのよ」

「よかったです」


 横の江南さんは黙り込んでいる。今の状況に戸惑いを隠せない様子だった。


 最近、江南さんの機嫌がよかったのは、今までのしかかっていた心労が減ったからだ。再燃の兆しが表れたことで、さっきまでの上機嫌が嘘のように沈んでいる。


「今日は、あの派手な子はいないのね」

「僕だけです。ちょっと江南さんにお願い事をされていて……」

「あら、そうなの。勉強か何かかしら」

「それは、いつものことなので。実は、その……」


 どういう反応をされるのかがわからなかった。でも、これを知ったからと言って機嫌が悪くなるようなことはないはずだ。


 俺は言った。


「料理を教えに来たんです」

「料理? え? 梨沙に?」

「はい」


 特にまずい反応ではない。


 勉強が料理に置き換わっただけ。キッチンを使われたくないということでなければ、問題はないはずだ。


「めずらしいわね。梨沙がそんなことを頼むとは信じられないわ」

「そんなことないですよ。江南さ――梨沙さんは、お母さんに料理を作ってあげたいそうなんです」


 江南さんもまた、江南母の顔色をのぞきこんでいる。


 それでもやはり、まずい変化は起こらなかった。驚き、目を見開いたが、すぐにその顔は微笑に打ち消される。


「いいことを聞いたわ。全然知らなかった。ありがとうね、梨沙……」

「別に……」


 目線を横に逸らしながら、江南さんはそっけなく言う。


 ――いったい、何があったんだろう。


 話していても、江南母の機嫌が悪いようには見えなかった。

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