第48話 あと一度

「普通に、穏やかに……?」

「ああ。雑談をしただけだ。内容なんてほとんど覚えてないくらい。もしかしたら、江南さんのお母さんも、会話したかったんじゃないかな」


 本当は、覚えていないわけがない。一言一句、というほどではないが、ところどころの言葉はかなり印象に残っている。


(どうせ要らないものだもの。どうでもいいに決まってるじゃない)


 横に流された視線。はっきりとした口調。今でも鮮明に思い浮かぶ。


「なおっち、変なところで行動力あるよね」

「そう?」

「うん。わたしだったら、絶対に一人で話さないと思うよ。わたしなんかが触れていいことじゃないと思っちゃうもん」

「俺もそう思ってるよ。別に、大したことしたわけじゃない。ちょっとした雑談程度。触れるとか触れないとか、そういう話じゃない」


 西川は、リンゴジュースをストローですする。両腕をテーブルのうえに乗せながら、うかがうように俺を見てきた。


 江南さんだけでなく、西川からも探られている感覚。


「悪かった、変なこと訊いて」


 江南さんは、表情を緩めた。


「うちの母さん、あんなだから。ずっとあんたたちには負担かけたと思う。本来はうちの中の話だし、あんまり頼りにするべきじゃなかった。つい、甘えちゃった……」

「気にすることないって」


 いったいどういうことを話していたのか、気になっていたのは事実だろう。しかし、それ以上に俺がひどい目にあっていないか心配していたみたいだ。こういうところは、相変わらず素直じゃない。


「感謝してる。おかげでだいぶ片付いた。変な臭いもほとんどなくなったし、母さんの機嫌も良くなってる気がする。あの人、ひどいときは部屋で暴れまわったりするから。……勉強とかもしやすくなったしね」

「お、真面目にやってんだ」

「当たり前。期末で、先生たちの鼻を明かす予定だし、ごちゃごちゃ文句を言われつづける生活にも嫌気がさしてきたから。テストの成績が良くなれば、言いづらくなるでしょ」


 前回以上に期待できそうだ。赤点回避だけでなく、トップレベルの成績になったら、城山先生は白目をむくかもしれない。


「梨沙ちゃん、すっっっごく勉強してるもんね。すぐに抜かれちゃいそう」

「大げさ。今回の目標は、平均点越えだから」


 そして、江南さんは、ちょっとだけ笑った。


 相変わらず、江南さんの笑顔にはどきっとする。普段の冷たい表情が嘘のように、優しい顔をする。食堂にいる観衆も、今の笑顔を見ただろうか。見たとしたら、きっと驚くに違いない。教室にいる江南さんとは全く異なる印象のはずだ。


 実際、西川は少し嬉しそうだ。美人というのは恐ろしい。


「よく言うよ、中間の前、俺にさんざん質問してたくせに」

「そんなに質問した? あんたって、やたら恩着せがましいときあるよね」

「そんなこと言うと教えないぞ」

「はいはい、ごめんね。でも、今回は質問なんて必要ないかも。前回は、時間がないうえにリハビリしてたからあんなに訊いちゃっただけだし」


 まぁ、確かに必要ないだろう。江南さんは、やればできるタイプだ。中間から期末までちゃんと授業も聞いていたようだし、中間までの分はある程度穴埋めできている。あとは自力でどうにかできるはずだ。


「その言葉を信じておくよ」

「偉そう。ま、ひとまずはいろいろ大丈夫」

「うんうん」


 西川も笑っている。江南さんの機嫌の良さが、本当にうれしいみたいだ。


「掃除とか、料理とか……いろいろ頼んでたぶんについても、もう大丈夫」


 江南さんは、さらにそう付け加えた。俺は尋ねる。


「……ん? そもそも、この話って江南さんのお母さんの体調を気遣うために、掃除と料理を合わせてお願いしたい、ってことじゃなかったっけ?」

「そうだけど。でも、これ以上頼むのはさすがに悪い。だから、もうちょっとキッチンを整理したら、自分で料理勉強する」

「なるほど」


 そのとき考えていたのは、紗香と藤咲のことだった。ここで解放されるのであれば、これ以上藤咲に負担をかけずに済む。それから、藤咲の言葉に対する返事についても、ゆっくり考えることができる。


 あんまり深入りしすぎるのもよくないかもしれない。


「わかった。じゃあ、あとは江南さんに任せるよ。ただ……」


 もうひとつ。俺が考えたことがある。


 基本的には、これからノータッチ。普段の日常に戻る。


 しかし、これきり江南母に会わないというのもいけない気がした。せっかく気に入ってもらえた。それに、もう一度話してみたいという気持ちもあった。


「キッチン使える状態になったら、呼んでくれ。一回くらいなら料理手伝うよ」

「……いいの?」

「ああ」


 それに江南さんだけだと不安だ。意外と料理が下手かもしれない。豪快に「ま、いいか」と調味料をぶちまけそうな予感がしないでもない。


「じゃあ……頼んだ」

「おう」


 どのような結果を招くかはわからない。もしかしたら、俺なんかいないほうがよかったと思うかもしれない。


 それでも、俺にしかできない役割がきっとあるのだと予感していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る