第45話 説得

「でも、そうやって、どうでもいいものなど気にせず生きているつもりでも、最近はなんだかとても疲れるの。気にしないものが増えたのに不思議よね」

「そう、なんですか」

「ええ。本当は一日中眠っていたいくらい……。これがきっと、歳をとったということなのよ」


 話を聞いていて、本当にそれは「どうでもいいもの」だったのかと疑問を持った。


 どうでもいいんじゃなくて、どうでもいいものと「思い込もうとしたもの」なんじゃないだろうか。そして、そうした理由は、自分をだまさないとそっちのほうが辛かったから。しかし、目をそらした結果、何の変化もないままこの人のそばに残りつづけた。


「……あなたは、梨沙と同い年でしょう?」

「はい」

「年齢を重ねていくと、いつかわかるようになるわ。今は、わからなくても、ね」


 俺は黙ってうなずく。


「歳をとるにつれて、持っているものが多くなる。でも、すべてを抱えて生きている人なんてきわめて稀だわ。みんな、どこかで取捨選択をしているの。あるいは、自分で選んでなくても、つかんだそばからこぼれ落ちていくものもあるわ。そんなふうに生きていると、若いあなたが大事にしていることも、わたしにはどうでもいいものに見えたりする。あるいは、その逆もあるのだけれど」


 江南母は俺から顔をそらして、二回咳をする。


「わたしの言っている意味、わかるかしら?」


 どう答えようか迷った。言わんとしていることを理解したつもりだが、その裏にあるものまで読み取れたとは思えなかった。結局、「まぁ」と曖昧な返事をするだけにとどめた。


 と、そのとき。急に江南母が口をつぐんだ。


「……」


 無表情で、俺を見ている。その視線は怖いくらいまっすぐ突き刺さった。


 俺は、内心あわてた。なにかまずいことを言ってしまったか。「まぁ」なんて返事をしたのがよくなかったか。なんて取り繕えばいいのかと必死に考えていたら、江南母はなぜか噴き出すように笑った。


「ふ、ふふ……」

「あ、あの、なにか……?」


 どうやら怒っているわけではないらしい。緊張が解けるのを感じながら、次に訪れた戸惑いの感情を制御できずにいた。この人、本当に考えていることが読めない。


 すぐには答えが返ってこない。しばらく笑ったあと、また俺の顔に目線を戻した。


「面白いわ、あなた……」

「え?」

「あなたって、考えていることが全部表情に出てしまうのね」


 俺は、江南さんにも同じことを言われたことを思い出した。


「そんなに表情に出てました?」

「ええ。今も」


 自分で自分の顔に触れてみるが、どんな顔をしているのかわからない。


「そうね、確かにこんなことを訊かれても困っちゃうわよね」

「いや、特にそんなことは……」

「いいのいいの、忘れてちょうだい」


 不思議なことに今の江南母は、過去最高に上機嫌だった。もしかしたら、俺に話を聞いてもらえたことがうれしかったのかもしれない。


 ……この人も、もともとは普通のお母さんだったんだろう。ふと、当たり前のことに気づかされた。今の姿だけ見ているとただの優しい人にしか見えない。


「あなたのことが気に入ったわ」


 突然、そう言われた。


「人づきあいが下手な梨沙が心を開くわけだわ。梨沙も、きっとあなたのことが気に入ったのね」

「……その割には、憎まれ口ばかりですが」

「あの子はそういう子なの。気にしないであげてね」


 その言葉を聞いて、思った。この人にとって、娘は「どうでもいいもの」ではないのだと。


 俺は、そのことに安心した。


「もう一度、あなたの名前を訊いてもいいかしら」

「……大楠、直哉です」

「そう。直哉君というの。覚えておくわ」


 そして、今、ようやく。


 俺も「どうでもいいもの」から「どうでもよくないもの」にランクアップしたのかもしれなかった。


「……今日でおそらく掃除は終わります」


 江南母は、小さくうなずくだけだった。


「お母さんは否定するかもしれませんけど。風邪がなかなか治らない原因は、この部屋が安らげる場所ではなかったからだと思っています。今はきれいになりましたけど、また汚れてしまうんじゃ意味がありません」


 俺の言葉は届いているのか。まったくわからないが、とにかく言うしかなかった。


「どうでもいいゴミのことなんかで心を患わされたくないかもしれません。それでも、必要なことです。僕たちは、そう思っているからここで掃除を行いました」


 言葉が空を切っているような感覚がある。俺たちのしたことに意味なんかなかったんじゃないかと思えてきてしまう。


 しょせん、俺はこの人の心の表面に触れただけだ。もっと奥底に潜む何かを見つけ出し、解決したわけではない。これが、今の俺にできる精一杯のこと……。


 最後に言った。


「少しは、自分のことも労わってください」


 江南母の顔から、感情にまつわる動きがなくなる。この人にとって、部屋の汚さなどどうでもいいこと。だから、俺の言っている意味が理解できないのだろう。


 また時間が止まったのではないかと思える長い沈黙の果て、江南母は目をそらして、一言だけ言った。


「考えておくわ」


 その言葉が、前進を意味しているのか停滞を意味しているのか、俺にはわからなかった。


――――――――――――――――

申し訳ないですが、一週間程度更新をお休みします。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る