第44話 どうでもいいこと
「どうしてそこで寝ているんですか?」
言った。言ってしまった。やばい兆候が見られたらすぐに撤回しようと考えながらも、一度は訊かなければならないことだという気がしていた。
「どういうことかしら?」
「ここは狭いし、寝る場所としてはあまりふさわしくないと思うんです。体調が悪いのであれば、もっとくつろげる場所のほうがいいんじゃないかと……」
本来であればこの空間は、椅子を引くために用意されているスペースでしかない。食卓越しでないとそこにいることもわからないし、何よりも衛生的とは言いづらい。もともと、ここらへん一帯にゴミが積まれていたことも考慮すると、ゴミの壁に囲われた小さな空間だったわけだ。
エアコンの風もあまり届かない。いったいここで何をしていたのか。
想像と違って、江南母の機嫌は損なわれなかった。
「そんなことないわよ。人によってくつろげる場所は違うの。わたしにとってはここが最適というだけのこと」
「最適……」
「そう。ここが好きなの」
体調の良化に合わせて、口調もはっきりしてきている。髪はボサボサだけれど、女子高生の母親とは思えないくらい若く見える。
「熱が出る前からここに?」
「熱が出たからここに移動したなんてことはないわよ」
「ずっと、何年も……?」
そこでようやく、江南母に変化があった。何度か見た、時間の停止。これ以上踏み込んではならない。
「いえ、なんでもないです」
まるで、スイッチのオンオフだ。一度スイッチが入ると異変が起こるが、もう一度押し直せば元に戻る。やはり、スイッチは過去にあるらしい。それがわかっただけでも十分だ。
「掃除はご迷惑じゃないですか?」
ゴミだけであれば江南母から文句は出ない。昨日まで貯めていたゴミの一部はすでに回収済みのようだし、特に抵抗はされなかったんだろう。
「なんでかしら? 迷惑ではないわよ。ゴミなんてないほうがいいじゃない」
「そうですね。変なこと訊きました。すみません」
あくまで、俺たちが今まで捨てたものは、「ゴミ」として認識されている。であれば、壊れた家具はゴミとは認識されていなかったということだ。ゴミでないものを勝手に捨てられたら、それは怒られるのも当然かもしれない。
この人にはこの人のルールがある。それは、なにも間違ったことというわけではない。
人の認識なんて絶対ではない。細かい分子で構成されているものを言葉で一括りにするのと同じように、人間は誰しも現実とは異なる世界を認識している。
否定だけはしてはならない。
「でも、どうしてあそこまでためてしまったんですか?」
「捨てなかったからよ」
「なぜですか?」
「捨てても仕方がないからよ。どうせゴミは出るんだもの。それに、どうしても捨てたかったら、あの子がどうにかしたでしょ」
良くも悪くも興味がなかったということだ。捨てることにも、保有することにも。
「でも、ゴミをずっと持っていると、臭いが出るし、虫も湧きます。実際、中には虫がたかっているゴミもありました」
「そう」
「でも、最悪レベルにまで達しなかったのは、江南さんがときおり対処していたからですか?」
「まぁ、確かに、あの子はときどきここに来てたわね。わたしと話したくないのか、すぐに出て行ってしまうのだけれど。ごはんを渡してくれたのもあの子」
「そうなんですね。自分からはどうにかしようと思わなかったんですか?」
「さっきも言ったでしょ? ゴミは出るの。どんなことをしてても出るの。捨ててもたまるの。捨てることにそこまで意味はあるのかしら?」
だんだんと、江南母の言っていることが理解できなくなってくる。
「生きていると、何かを消費する。消費すると要らないものが出てくる。それを人はゴミと呼ぶの。ゴミは毎日毎日たくさん発生する。捨てても捨ててもゴミがまったくなくなることなんてないわ。だったら、どうせ要らないものだもの。どうでもいいに決まってるじゃない。あなただって、毎日生きているときにどうでもいいことに気を払わないでしょ。あなたが一歩歩くたびに、その下にアリが生きているかどうかなんて考えるかしら? そんなことにまで気を使っていたら、頭が狂ってしまうわ。だから、人はどうでもいいこととどうでもよくないことに分けて生活しているの。それと同じことじゃない?」
「そうなんですね。江南さんのお母さんにとっては、どうでもいいことだったんですね」
「そうよ」
たとえ、異臭がしても、虫が出ても、気を払うほど重要ではないと認識していた。アリを踏みつぶすことには気を使わなくても、もう少し大きな生き物であれば気を遣う。普通の人間であれば、それらを避けて通りたいと思うが、わざわざ避けるほどの理由が思いつかない人にとっては、無為なことと判断されるのかもしれない。
世の中には、ゴミ屋敷に住んでいる人がいる。庭にもあふれかえるほどゴミをためこみ、近所からクレームを浴びたりする。テレビで取材されるそういう類の人たちは、むしろ逆のことを言う。必要じゃないものなんかないと。
だから、そういう人たちとも異なる。もしかしたらこの人は、今のこの現実に対して、興味がないのかもしれなかった。
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