第43話 対話
「江南さん、これ捨てちゃうけどいい?」
「ちょっと待って」
翌日。俺たちはまた江南さんの家に訪れていた。江南さんは昨日言った通り、学校に来た。西川も含めて話し合った結果、掃除の続きを実行することにした。
今は、リビングで最後まで放置していた水回りの掃除。こびりついたカビなどを拭い去っていく。ときおり出るゴキブリを江南さんが果敢に退治したりしながら、徐々にゴミは片付けられていった。
江南さんは俺の手に握られたおたまを見て、「いや、いらない」と言った。
「ここにあるやつ、だいたいろくなものじゃないから。器具は全部捨てちゃったほうがいいかもしれない」
「フライパンも?」
「ああ、うん。もう一度全部買い替えたほうがいい」
こればっかりは他のゴミを一緒にするわけにはいかないので、別の袋に詰め込んでいく。今日の掃除を開始して1時間程度経過するが、意外と目途が立ってきた。そもそも、ここにあるゴミはリビングからの延長線上で雪崩れ込んできたものばかりだ。キッチンなんて、しばらく使ってなかったんだろう。
ただ、ゴキブリだけはなんとかしてもらいたいが。
西川なんて、ゴキブリが一匹出たところで完全に及び腰になってしまった。今は、きょろきょろ辺りを見渡しながら、トングのようなものでゴミを採取している。普段は、明るく元気なところばかり見ているので、怯えた表情は新鮮だった。
「は、はぁ、いないよね、いないよね」
「大丈夫大丈夫」
「梨沙ちゃんはなんでそんなに余裕なのぉおぉ!?」
ほとんど発狂状態だ。かくいう俺も、精神的にはあまりよくなかった。俺もゴキブリは得意じゃない。平然としているのは江南さんただ一人。
大声を上げたせいで、さすがに江南母も反応していた。視線を一瞬こちらに向けたあと、さっとそらす。正直、キッチンの掃除にもあまり興味はないようだった。ただし、捨てようとしているキッチン用具についてはあとで文句を言われるかもしれない。そこは注意が必要だ。
だいぶ掃除したおかげで、部屋の臭いはだいぶ薄まっている。最初にこの部屋を訪れたときとは大違いだ。換気も定期的に行っているから、宙に舞う埃も減った気がする。
ただし、寒さだけは変わりがない。おそらく、エアコンのフィルターがろくに掃除されていないのだろう。あるいは、根本のところで機械がイカれているか。
ガチャガチャという物音が鳴りつづけている。
「少し休憩しよう! そうしよう!」
さすがに限界だったらしい。西川がそう宣言した。特に断る理由もなかったので、俺も江南さんも了承する。
西川と江南さんは、江南さんの部屋に引っ込んでいった。まぁ、この家でくつろげそうな場所はそれくらいだろう。リビングの整理をしたとはいえ、あちらこちらに壊れた家具が転がっている。割れた皿の破片がどこに残っているかもわからないので、ゆっくりと腰を落ちつけることも難しい。
けれど、俺はリビングにそのまま残る決断をした。「キリのいいところまでやってから休む」と嘘をついたのだ。
その理由は……。
俺は、二人がいなくなったのを確認してから、江南母へと近づいていった。少しずつ顔色はよくなっているが、相変わらず体調は万全ではなさそうだ。
江南母は、顔を上げた。
「あら……どうしたの?」
俺一人で来たことに戸惑いを隠せない様子。今までは同じ空間に江南さんもいた。赤の他人と二人きりという状態は、緊張を与えてしまうのかもしれない。
「話がしたくて、来ました」
はっきりとそう言った。
ずっと気になっていた。江南母のこと。俺には大したことはできないだろう。しかし、最低限の話をしないと、これ以上先のことを実行していいのかがわからなくなる。俺は、別にこの人を追い詰めたいわけではないのだ。
「話? どんな話をしてほしいのかしら?」
「いえ。ちょっと雑談をしようかなと思っただけです」
警戒させてはならない。すべてを聞き出そうなんて気はない。ただ、少しでも奥にあるものが覗けたならばそれでいい。
「まだ治ってないみたいですけど、今の体調はどうですか?」
江南母のほおが少し緩む。
「ふふ。別に大丈夫よ。あの子が大げさなだけ。のどの痛みもなくなってきたのよ」
笑ったときの顔は、江南さんによく似ている。
「すみません、最近バタバタしてて。もうちょっとで掃除も終わりそうなんですけど」
「あら、ありがとう。だいぶきれいになった気がするわ」
ちゃんとリビングの変化を理解している。それでもかつてのように怒らないのは、江南母にとって問題のある変化ではないと認識しているから。その線引きをできる限り見極めたい。
そして、それだけじゃない。
あの写真。かつて、この家に何かがあった。
事情を知ろうとは思わない。ただ、この人が大事にしているものをちゃんと理解しておきたいと思った。
「あの……」
言葉を紡ぎながら、俺の脳裏にあのときの光景が浮かんでいた。テーブルを引きずりながら、江南さんに向けて叫んでいた。玄関からつづく廊下には、あのときの傷がまだ鮮明に残っている。
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