第41話 バイト
……江南さんからラインが届いたのは、その夜のことだった。
江南 梨沙:ねえ
スマホのバイブレーション。口頭で話しかけてるかのような気軽いメッセージ。数学の問題を解く手を止めて、画面をタッチする。
さっきからエアコンの効きが悪い。リモコンで温度を一度上げてから、返信を打った。
大楠 直哉:ん?
風邪で何をするのもしんどそうだったが、少しは良くなったのだろうか。
俺は勉強をつづけながら次のメッセージを待つ。しかし、すぐには届かなかった。5分くらいして、ようやくスマホが震える。
江南 梨沙:暇
たったの一文字。これだけのために5分も時間がかかるとは思えなかった。俺のメッセージにすぐ気づかなかったか、なんて打とうか迷っていたか。後者は考えづらいから、前者なのかもしれない。
江南さんからのラインは久しぶりだ。あの不良たちにボコボコに殴られたとき以来だと思う。
時刻はすでに10時を過ぎている。徐々に眠くなり始めた頃合いだった。
逆に江南さんは、寝すぎて目が冴えているのかもしれない。
大楠 直哉:風邪は?
江南 梨沙:もうほとんど治ってきた
今度はすぐに来た。机の上に置いたペットボトルに口をつける。最近ハマっている、ノンカフェインのエナジードリンクだ。炭酸が口の中を広がる。
江南 梨沙:風邪なんて引いたのは久しぶり。体調崩すのってあんなに辛かったんだと思った。寒気が止まらなかったから
大楠 直哉:確かに、俺たちが来たとき顔面蒼白だったよ。俺たちにかまってる余裕なんかないって感じ
江南 梨沙:……ちょっと悪かったね。ほんとは追い出したいくらいだったから。あんまり長居されて、あんたたちに移したくもなかったし
大楠 直哉:わかってるよ。俺たちもちょっと気を遣えてなかった。ちなみに、今日も西川は行ったの?
江南 梨沙:来たよ。今日は余裕あったから、少し話した。
大楠 直哉:そうか
それなら、俺も行けばよかったかもしれない。
しかし、西川は本当にマメだ。もし、西川が男だったら女性はみんな惚れるだろう。もっとも、西川は男にも人気がある。容姿は派手だが、普通に可愛いし性格もいい。
数学の問題集を閉じて、スマホを持ったままベッドに倒れ込む。エアコンの風が吹きつけてくる。壁に貼られたたくさんの紙が揺られて、小さく音を立てている。
たくさんの文字が躍る。俺の中に繰り返し繰り返し叩き込まれた言葉。紗香がこの光景を見たとき、ドン引きされて、「戦場帰り?」と本気で心配された。きっと、江南さんが見てもドン引きして、からかってくるだろう。
窓の外は、反射光であんまり見えない。俺はあくびをかみ殺す。
大楠 直哉:お母さんのほうは、どうなの?
江南 梨沙:治ってない
リビングの掃除はだいたい済んでいる。あとは、キッチンのほうを綺麗に片づければ、だいたい依頼は達成だ。
だが、状況は何一つ変わっていない。
片付けたところで、また汚くなってしまうんじゃないか。そんな危惧もあった。
大楠 直哉:大変?
江南 梨沙:別に。もう慣れてるから。あんまり関わらないようにしてたし。
大楠 直哉:西川から聞いたよ。バイト詰め込んでるんだってね
一分くらい間をおいて、次のメッセージが送られる。
江南 梨沙:あっそ。聞いたんだ。まぁ、隠すことでもないし、いいけど
大楠 直哉:よく遅刻していたのはそれが理由なの?
江南 梨沙:そう
俺の印象に残っている昔の江南さんは、堂々と遅刻する姿、そして授業中に眠る姿だ。他人に興味がないんだと思っていたが、それ以前に疲れ果てていたのかもしれない。
江南 梨沙:バイトって言ってもね。変なことしてるわけじゃない。カラオケとか、コンビニの深夜バイトをよくしてた。あんまり一つの職場に留まりたくなかったから、ちょくちょく場所を変えて働いてた。そういう職場は、やることあんまり変わらないから、替えまくってもすぐに適用できたし
大楠 直哉:どれくらいシフト入れてたの?
江南 梨沙:毎日
大楠 直哉:睡眠時間は?
江南 梨沙:あんまりなかったかな。最近はシフト減らしてるから、大分余裕が出て来てるんだけど
思ったよりもすんなり話してくれたことに驚く。
たぶん、本当に母親と関わりたくなかったんだろう。でなければ、もっと早い時間にシフトを入れるはずだ。おそらく、日がある間は適当にぶらついて、夜になったらバイトで帰らないようにしていた。その結果、つもりにつもったものが、ああいう形であらわになった。
――最近はシフト減らしてるから、大分余裕が出て来てるんだけど
この「最近」。それは、江南さんが真面目になったときを指しているんじゃないかと思った。であれば、バイトをしていたのはお金だけの問題じゃじゃない。
大楠 直哉:でも、バイトはつづけてるんだ?
江南 梨沙:それはね。別に、バイトすること自体は嫌いじゃないから。
大楠 直哉:よく学校にバレずに済んだね
江南 梨沙:まぁ、余裕でしょ。うちの学校の連中が来そうもないところを選んでるから
実際、城山先生からバイトのことなど一度も聞いたことがない。単純に、不真面目だから遅刻しているとだけ言っていた。
ふと、江南さんの部屋で見た写真を思い返す。あの写真について訊くことはできない。ただ、俺の脳裏に残るあの姿が、江南さんの心の内を解き明かす重要なキーであると直感していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます