第40話 動揺
翌日、学校に行くと齋藤が「なぁなぁ」と声をかけてきた。相変わらず、手にはエロ小説。聞いた話だと、一日一冊のペースで読んでいるらしい。その労力を少しでも勉強に当てればいいのにと考えながら、
「なに?」
と尋ねた。
朝のSHRのあと。一時限目の授業開始まで5分くらい残っている。
「最近、お前なにかあった?」
「え?」
いつのまにか、進藤も顔を上げてこちらを見ていた。異変があるとしたら、バカみたいに読みふけっているお前らだろうと言いたかったが、口には出さない。
「いや、なんか部活あんまり来ないし」
「ああ、そのことか。ちょっと、いろいろあってな」
そもそも、部活に来ていないのはお前らもじゃないかと思った。しかし、よく話を聞くと、最近は部室に顔を出しているらしい。
そういえば、江南さんの家の掃除、このままじゃ終わらない。藤咲の負担にもなるから、あんまり時間はかけたくなかった。江南さんは今日も欠席している。昨日の感じからして、症状が重そうだった。すぐには治らないかもしれない。
西川は、今日もお見舞いに行くのだろうか。西川ならありえる気がするが、今日はやめておこうと思った。俺自身が風邪を引いたら元も子もない。
「いろいろ、ね。よくわからんけど、部長が寂しがってたぞ」
「どうせぎりぎりまで引退しないからほっとけばいいだろ」
「確かに」
部長のことだから、最後の登校日まで部室でゲームを続けるんじゃないだろうか。おそらく、今の状態で東橋大を受験したところで、ほぼ間違いなく合格するだろう。
「まぁ、来週くらいには部活行くよ。ちょっと今週くらいまでは用があって出られないから。部長にも伝えておいて」
「ああ。ちなみに俺たちも毎日行ってるわけじゃないからな」
「……てかいつまでそのブームは続くんだ?」
「ん? あ、この小説のことか」
「そうそう」
進藤も齋藤もそろってエロ小説を読みふけっているせいで、俺も同じ穴のムジナと思われそうだ。実際のところ、俺は一冊も学校で読んでない。学校じゃなくとも、紗香に見られる可能性があるので持って帰る気にならない。
紗香にそんな場面を見つかったら、生涯にわたってからかってきそうだ。
「お前には、わからないかもしれないがな。ここには男のロマンが詰まってる。エロにおいて重要なのは視覚的なものじゃない。シチュエーションだ。シチュエーションが男のリビドーを何倍にも掻き立てる。たとえ文字だけだとしても、興奮するには十分だと言うことを学んでしまうと――」
話が長くなりそうだったので、手を前に突き出してさえぎった。周囲に聞こえてそうでヒヤヒヤする。
「まあ、おこちゃまのお前には理解できないかもしれないな。な、進藤」
進藤は、そうだな、とやたら真面目な顔でうなずく。
「というわけだ。ブームなんて生ぬるいものじゃないんだ。男としての性だ、性」
「さいですか」
呆れて物も言えない。今のところ先生にバレずに済んでいるが、おそらく時間の問題だろう。バレたとき、果たしてどんな辱めをうけることになるのか想像するだけで恐ろしい。
「あんまり授業中には読むなよ」
「大丈夫。保健体育の勉強を内職しているだけだから」
「それを先生にも言えるんであればいいけどな」
しかし、俺が何を言おうと、二人はやめないだろう。オタクというのは、好きなものに対しての集中力がすごい。人目など気にせず、自分が楽しいと思うことに対して全力を費やす。そのこと自体は決して悪いことじゃない。
ただ、ときおり聞こえる「おぉ」とか「ふーふー」という興奮の声を抑えてもらいたい。授業中ではさすがにしないが、休み時間中は遠慮なく言う。
時計の針が、一時限目の開始時刻に到達する。チャイムの音が鳴り響いた。
「ほら、先生そろそろ来るぞ」
「わかってる」
幸い、一限目の授業は、現代文だ。現代文の先生は、生徒を注意することがなく、ぼそぼそと説明するだけ。まず、齋藤たちのことを咎めることはない。
だからと言って、エロ小説を読んでいいことにはならないが。
俺は、鞄から教科書を取り出して、なんとはなしに藤咲のほうを見た。
今日はまだ藤咲と話をしていない。一応、いつも通りの調子を取り戻したとはいえ、藤咲と話そうとするとどうしても身構えてしまう。
藤咲には変わったところはない。後ろの女子と談笑している。
当然のことながら、藤咲に不満があるわけではない。普通であれば、告白された瞬間に飛びあがって「ぜひ」と答えるところだ。もし、こんな悩みを誰かに相談しようものなら、首を絞められて殺されてもおかしくはない。
それほどに贅沢な悩みだ。
話の途中で俺の視線に気がついたようで、藤咲の後ろの女子が、俺に指さした。藤咲の視線もこちらに向いた。
どき、と心臓が跳ねる。
目が合った。どういう表情をすればいいのかわからない。気まずさが俺の中に残る。
藤咲も困っているようだったが、すぐに笑顔を作っていた。
俺は、曖昧に笑い返すことしかできなかった。
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