第38話 写真立て (20/5/24改稿)

 江南さんの部屋に入った俺は、以前と比べて物が増えていることに気がついた。それは、風邪のためじゃなくて、リビングから持ち運んだものがいくつかあるからだと思った。


 たとえば、ラジカセ。掃除をしているときに、一度見かけた覚えがある。古いモデルだ。スイッチのところは少し色が剥げている。CDとカセットテープの投入口があり、液晶は端のほうが歪んでいた。


 掃除のときにリビングで見つけたものを、こちらに避難させているのかもしれなかった。これくらいの大きさであれば、江南母も気づかないということなのだろう。


「こほ、こほ……」


 江南さんは、いつもよりも静かだ。クリーム色のカーディガンを肩にかけて、布団のなかに入りこむ。寒気もあるようで、体が少し震えていた。


「梨沙ちゃん。思ったよりも体調悪そうだね……」

「だから言ったでしょ。帰れって」


 江南さん曰く、インフルエンザではない。一度、病院には出向いて診断を受けたという。


「……症状は、寒さと喉だけ? あんまり鼻がむずむずしている感じはないけど」


 俺が尋ねると、江南さんは面倒くさそうに答えた。


「体全体がだるい。というか、しゃべっているのも面倒なくらい体が重い」

「熱は?」

「38度5分くらい。たぶん、一日か二日寝ていれば治るから」


 布団のわきには、いくつか空き袋が残っている。コンビニでおにぎりやカロリーメイトを買ったのだろう。


 エアコンのおかげで、あのリビングよりもマシな気温だ。このなかで布団に入っていれば十分に汗をかける。江南さんの顔にはすでに汗が伝っていた。


「食欲はありそう?」


 西川が、横になっている江南さんの顔を覗き込んだ。


「いろいろ買って来たけど。食べられそうなのある?」

「……西川。もう食べたから要らない。上半身を起こすのも、口に何か入れるのも、そのあと歯を磨くのも面倒。わかって」

「それなら仕方ないね~」


 結局、コンビニで買ったもののほとんどは無駄だった。それも覚悟のうえだったので、特に気にすることはない。


「……わざわざ見舞いありがとね。でも、うつすと悪い」

「江南さん、結構弱ってるね」

「どういう意味?」


 一瞬、にらまれた。もちろん、普段であればこんな殊勝なこと言わないという意味だ。


「嘘嘘。いくらなんでも病人をからかうようなことしないって」

「……生意気……」


 江南さんは掛布団を引っ張りあげる。俺は、心の中で謝っておいた。


「なおっちも素直じゃないな~」

「別にそんなんじゃないっての」


 西川がなぜかニヤニヤしている。くそ、余計なこと言うんじゃなかった。


 できることがあまり多くないので、俺たちは江南さんの部屋を簡単に片づけることにする。散らばっているゴミをゴミ箱に放り込み、ホームセンターで買った器具を壁に寄せた。ほとんど効果の薄まった熱冷まシートも取り換えた。


 眠れないのか、江南さんは荒い呼吸を繰り返している。


 西川は、ハンカチで汗をぬぐってあげていた。それから、優しく語りかける。


「無理しすぎじゃない?」


 それに対して、江南さんはちらっと視線をよこしただけで返事をしない。本当にし

ゃべるのが億劫みたいだ。


 西川がつづける。


「梨沙ちゃんは人に甘えるのが下手だから……」


 静かだった。俺たちの声以外、ほとんど物音が聞こえない。


 さっきから何の話をしているのだろうか。甘えるのが下手? 無理してる? 江南母のことだけを指しているとは思えなかった。


「もうちょっと甘えてくれないと、わたし寂しいかも~」


 それでも江南さんは何も答えない。会話を拒絶しているようにも、西川の言葉を全面的に受け入れているようにも感じとれる。


 西川と江南さんだけの世界だった。冷たい江南さんとずっと仲良くしていたのは伊達じゃない。ここにも俺の知らない歴史があり、俺の知らない関係がある。


「……寝る」


 それだけ言って、江南さんは瞼を閉じる。


 あんまり寝顔を見るのも悪いと思って、立ち上がった。片付けたおかげで、以前に見たときと同様の殺風景な部屋に戻っていた。女子の部屋だというのに、全くそんな気にさせないくらいに無機質な空間だ。


 ふと、俺はあるものに気づいた。


 腰の高さほどのキャビネットのうえ。そこに、倒れた写真立てがあった。これも、以前に来たときには見覚えがなかったので、リビングから持ってきたのかもしれない。


 俺は、その写真立てを持ち上げた。


 そこには、仲睦まじそうに写る家族の姿があった。


 おそらく、これは、江南さんの過去の写真なのだろう。中学生くらいの江南さんの姿もそこにあった。あんまり見てはいけないと思って元に戻そうとするけれど、不思議と俺の視線はその写真から離れなかった。


 家族は4人だった。


 江南母。江南さん。それから、小さな男の子と、穏やかな笑みを浮かべる背の高いメガネの男。


 もしこれが家族写真ならば、きっと弟と父親なんだと思う。


 現状からは考えられないほど、幸せなオーラに包まれた写真だった。


 場所は、ヨーロッパのどこか。石造りの街で、肩を寄せ合うようにカメラのレンズに笑いかけている。それは、江南さんも例外ではない。今の江南さんからは考えられないくらいに無邪気な笑い顔だった。


 ――何があったんだ?


 今、この家には弟も父親の姿もない。精神を病んでいる母親と、冷たい表情ばかりの江南さんしか存在していない。


(大切ってよくわからないね。ときによって変わるものだから。かつて大切だったものも、状況が変われば、そうじゃなくなっちゃう)


 状況が変わる。大切じゃなくなる。


 あの言葉は、いったいどういうことを指していたのか――。


「……なおっち?」

「ああ、いや……」


 西川に声をかけられて、慌てて写真立てをキャビネットのうえに乗せる。こんなところを江南さんに見られたら、「勝手に見るな」と怒られそうだ。


「なんでもない。江南さん、もう寝ちゃった?」

「たぶん……」


 そこには、呼吸が落ちついた江南さんの寝顔。俺たちの声に見向きもせず、瞼を閉じたまま胸を上下させていた。

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