第37話 見舞い

 次の日。


「ここは、次のテストで出すつもりだからよく覚えておいてください。それで――」


 世界史の授業。若い先生が淡々と解説する時間がつづいている。


 時刻は午前10時を過ぎていた。俺の後ろの後ろに座るやつが早弁したせいで、微かに食べ物の匂いが漂っている。ちらっと見た限り、トンカツだった気がする。


「カノッサの屈辱で重要なのは、それだけ教皇の力が強く、神聖ローマ帝国皇帝をはるかに凌駕する権力を持っていたということです。そもそもの経緯として――」


 丁寧に板書された文字をノートに書き写しながらも、俺はあまり授業に集中できていなかった。


 理由は簡単だ。


 一番後ろの席。そこには、独特の存在感を放つ人がいない。


 江南さんは欠席だと、城山先生がぽろっと漏らしていた。詳しく話を聞くと、どうやら風邪をひいたらしい。江南母からうつされたのだと思う。


 江南さんがいない教室が、やたらと久しぶりに感じられる。


 真面目になったあの日から、一度たりとも、遅刻も欠席もしなかった。授業中に居眠りすることもなく、模範的な生徒のように変わっていった。


 江南さんに話しかける生徒も少しずつ増えてきた。本質の部分に変化はないので、結局冷たくあしらわれるのだが、以前と比べると態度も和らいでいた。


 ――江南母が治らないのと同じように、江南さんが風邪をひきやすい環境にもなっていたというわけか。


 心配だ、という気持ちが俺のなかに芽生えていた。





 昼食を食べ終わったころ、西川が俺に話しかけてきた。


「なおっち。梨沙ちゃんのことだけど……」


 一応後ろを確認するが、齋藤は席を外していた。進藤とは少し距離が開いているから小声で話せば聞こえないだろう。


「風邪、だってね」

「わたし、びっくりしちゃったよ~」


 西川にしては抑えているつもりかもしれないが、元の声量が大きいせいで近くの生徒には聞こえそうだった。あまり聞かれたくないので、口元に人差し指を当てた。それだけで西川は察してくれた。


「西川は江南さんから何か連絡来た? 少なくとも俺はもらってないけど」

「わたしももらってないよー。というか、梨沙ちゃん、そういう連絡をマメにするタイプじゃないじゃん」

「確かに」


 俺が気になっていたのは、江波家の掃除をどうするかということだった。江南さんがいつごろ復帰するかもわからない。


「どうする?」

「う~ん。わたしとしては、今日も梨沙ちゃんの家に行くつもりだけど……」

「見舞い?」

「掃除のつづきってのあるし、梨沙ちゃんのこと心配だからね~。なおっちは?」

「そういうことなら、俺も行こうかな」


 あの母親と二人きりの状態で体調を崩すのは、まずい気がする。誰も面倒を見てくれないし、むしろ安静にすることすら難しいかもしれない。


「お、なおっち優しいじゃん」

「普通のことだろ。さすがに、な」

「じゃあ、放課後、一緒に行こう」

「西川、ちなみに部活は?」

「いいのいいの。わたしはあんまり強くないし、熱心でもないから。なおっちは?」

「同じく」


 そんなこんなで、俺たちはお見舞いに行くことに決めた。





 江南さんの住んでいるマンションは、オートロックじゃないため、すんなりと中に入ることができた。


 5階にたどり着いた俺たちは、江南家の部屋の前でインターホンを押した。


 手には、コンビニで買ったスポーツ飲料や軽食。なかなか応答がなかったけれど、1分くらいしてようやく声が聞こえてきた。


「……どちらさま?」


 かすれていたが、すぐに江南さんの声だと分かった。カメラはないので、誰なのか気づいていないらしい。


「やっほ~、梨沙ちゃん! お見舞いに来たよ」

「……ちょっと待って」


 足音が聞こえて、鍵の開く音がつづく。江南さんがドアの隙間から顔を出す。ドアスコープで俺の姿も確認したようで、俺を見ても驚いた様子は特になかった。


 風邪をひいたのは本当みたいだった。


 目がとろんとして、マスク越しにも息が荒くなっている。昨日の江南母と同様に熱冷まシートを額に貼り、珍しく乱れた髪を隠そうともしなかった。


「……思ったよりも大変そうだね」


 俺の言葉に、はぁ、とため息をこぼす江南さん。


「最悪。たぶん、母さんよりも体調悪いから。てか、あんまり近寄らないほうがいい」


 どうやら、家にあげるつもりはないようだ。しかし、今さら引き返すつもりはない。


「まぁまぁ、梨沙ちゃん。いろいろ買ってきちゃったし、なおっちも梨沙ちゃんのことが心配で心配で仕方ないっていうからさ~」

「は?」


 心配なのは確かだが、仕方ないってほどじゃない。江南さんも、疑わし気な目を俺に向けてきている。


「わたしは大丈夫だから、もう帰って」

「あのね、梨沙ちゃん」


 西川は、おおげさなそぶりで首を振る。


「マジな話。梨沙ちゃん一人だと何もできないでしょ。そんな様子じゃ。ここは素直に甘えるべきじゃないかな~?」

「できる。さっきコンビニでごはんも買ってきたし、家にある薬も飲んだ」

「ほんとに~? それに、こういうのは気持ちの問題でもあるでしょ。せっかくここまで来たわたしたちの気持ちを汲んでよ」

「……お人好し」


 江南さんはそれだけ言って、ドアを大きく開けてくれた。説得に応じてくれたことにほっとした。江南さんの性格からして、追い返されることも十分考えられた。


 俺と西川はそのまま江南さんの家に入る。

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