第36話 思惑

 ……今日の江南母は、静かだった。


 そもそも、俺たちのことなど視界に入っていないんじゃないかと思えてくる。顔には微笑みという仮面を貼りつけて、リビング全体に目を配っていた。俺たちの一挙手一投足は、空気の流れと同じように意識もされず、江南母の視界に溶け込んでいるのだろう。


「あの……」


 俺は、気になって江南母に声をかけた。江南母は、熱冷まシートを貼りかえている。


「あら? ええと……お名前は……」


 一度名乗った名前を忘れてしまったらしい。


「大楠です。お体は、大丈夫ですか。ここ少し寒いんじゃ……」

「そう? そんな気もするけど、私は気にならないわ」


 はっきり言って、気にならないわけがない。俺たちはこの部屋で掃除をするために防寒着を身にまとっているし、それでもなお寒さはしのぎきれていない。熱があるのであれば、なおさら寒く感じなければおかしい。


「風邪、ずっと治らないんですよね。薬とかは飲んでるんですか?」

「私ね、薬はあまり好きじゃないの。一回だけ梨沙に連れられて病院には行ったけれど、薬は初日しか飲まなかったわ。今までそれで治してきたもの」

「だとしても、ここまで治らないとなると……」

「心配してくれてるのね。ありがとう。風邪といっても、そこまで体調が悪いわけじゃないの。喉も痛くないし、少し頭がボーっとするだけだから」


 確かに、咳をしたり、鼻をすすっている様子はない。頬が紅潮しているが、唇が青くなっているということもない。


「娘さん――梨沙さんに聞きました。もう一週間以上、熱が下がっていないって」


 江南母は鷹揚にうなずく。


「そうね。歳をとると、どうしても治るのが遅くなってしまうのかしら。昔だったら、1日で治っていたはずなんだけど」


 笑う。その笑顔は、いつぞやに見た江南さんのものによく似ていた。

 風邪がなかなか治らないのは、ほとんど環境のせいだと思う。寒さ、衛生面の悪さ、江南母の精神的不安定さ。そもそも、治るどころか、少しずつ衰弱していってもおかしくないと感じるほどだ。


 江南母がまた水に口をつける。額にはまた汗が浮かんでいる。


「大楠君、だったかしら」


 ペットボトルを置いてから、江南母がそう言った。


「あ、はい」

「あんまりここに来ると、いつか風邪をうつされるわよ」

「……もう来るなってことですか?」

「そこまでは言わないわ。けれど、あなたが風邪になったら、あなたの家族に心配させてしまうだけよ。私の体調なんて、うちの家族の問題。あなたが気にすることじゃないのよ」

「……そうですね」


 江南さんも、その点は気にしているのだと思う。


「梨沙に、振り回されているんでしょ?」

「その点は否定できませんが……」


 江南さんは、自分の考えを大っぴらにしてくれる人ではない。ベールの向こうに隠された心の深奥に辿り着けた人は一人もいない。


「それでも、手助けするって決めたのは自分自身ですから……」

「優しいのね。梨沙のお友達は」


 俺の背中側には、黙々と掃除をつづける二人の姿。俺たちの会話は、掃除しながらでも聞こえていただろう。


「……さっきから何を見てたんですか?」

「え?」

「僕たちが掃除をしている間、ずっと、ぼんやりとなにか見ていた気がして……」

「……よく意味が分からないわ」


 少し、江南母の声がこわばった。あまり追究しないほうがいい気もしたが、今しか訊けないような気がした。


「今日は、ずっと寝ることもなく、視線がこっちのほう向いてたなって」

「そうだったかしら。自分ではよくわからないわ」


 俺と目を合わせようとしない。


「……一時間くらい、ずっとそうしてたのに、ですか?」

「さぁ……」


 そのとき。


 江南母の中の時間が止まるのを感じた。前に、江南さんが怒らせたときと同じだ。さすがにこれ以上の追究は無理だろう。俺はあきらめた。


「まぁ、そんなこともありますかね」


 少しずつ、江南母の時間が進む。瞬きもしなかった目は、ゆっくりと瞼が動く。


「そうね」


 この話は終わりだと言わんばかりに、短く答えた。


 俺はあくまで他人だ。必要以上に詮索する必要はない。けれど、根本的な解決を図るためには、そこに存在する何かをつかまなければいけない気がしていた。


 会話を切り上げ、掃除に戻る。


 ゴミの回収を黙々と行う。ゴミはまだ残っている。けれど、今日頑張ったおかげで、食卓付近も大分綺麗になった。あとは、キッチンを片付ければマシになるはずだ。


 おそらく、あと二日か三日程度で依頼を達成することができる。料理を作れるようになるかまではわからないが、できる限りのことはするつもりだった。


 顔を上げ、江南母の様子を伺うと、布団の中に潜っていた。


 もう、俺たちのほうを見ていない。俺に言われたことを気にしているのかもしれなかった。


 リビングの隅に積み上げられたごみは、今日だけで10袋以上もあった。すべてを終わらせるころには、この倍くらいは積み上げられるかもしれない。


 俺たちは、最低限の分別だけして、その日の掃除は終了することにした。

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