第35話 例のアレ
江南さんの家に入った俺は、状況にほとんど変化がないことを理解した。
リビングルームの中。そこには、江南母が鎮座している。西川は、先週と同様に細かなゴミを回収している。しかし、部屋に大きな変化を加えることができないようで、壊れた家具は置きっぱなしになっていた。
「あ、なおっち! お疲れ!」
西川は、江南母を刺激しない程度の声量で言った。
奥にいる江南母も、俺の姿に微笑みを浮かべる。先週の出来事を知っている俺には、歓迎している顔には見えない。警戒している相手に対する曖昧な笑みと感じられた。
「あら、またたくさん来てくれたのね。梨沙に、友達が増えてくれてうれしいわ」
「あ、どうも。体調はいかがですか?」
「ふふ、おかげさまでだいぶよくなってきたところなの」
しかし、肝心の江南さんがどこにもいなかった。前回の反省を生かして、上下にブレーカーをまとった西川が代わりに答えてくれる。
「梨沙ちゃん? 今、ちょっと買い物に行ってるよ~。すぐ戻ってくると思うけど」
状況に変化はないが、少しずつ掃除は進んでいるようだ。リビングのゴミは確実に減ってきている。臭いも弱まっている。
リビングの隅にゴミ袋が集められていた。ゴミをどうにかするつもりはないようで、江南母は一切触れていない。やはり、江南母が恐れているのは、部屋の一部として機能しているものの変化だ。
ゴミを回収するためにビニール手袋をはめたところで、江南さんが帰ってきた。
「あ」
俺の存在に気づいて、小さくうなずく。買ってきたものは、ゼリー飲料と水のようだった。この部屋では冷蔵庫が無用の長物と化しているので、こまめに買わないといけないのかもしれない。
江南さんは、ジャージに着替えていた。汚れてもいい格好にするべきだから当然だろう。本来であればダサい格好だと思うが、江南さんが着れば様になる。むしろ、スタイルの良さが浮き彫りになったように感じられた。
すらりと長い脚。細身の体。モデルとして登場してもおかしくない。
買ったものを、江南母に渡している。江南母は、「ありがとね」とお礼を言っている。
受け取ってすぐに、ビニール袋から水を取り出し、そのうちの一本を一気に飲み干す。額には汗が浮かんでいる。この寒い空間でも、布団に包まっていると汗が出るのかもしれない。
「何か欲しいものがあったら、すぐに言って。また買ってくるから」
「あら、優しい。男の子がいるから、見栄を張っているのかしら」
「お母さん……。そんなわけないでしょ」
「冗談よ。怖い怖い」
なぜか江南さんが俺を睨みつけてくる。俺、何か悪いことしましたかね。誰も真面目に受け取ってないから気にすることないのに。
俺たち三人は掃除を再開する。ゴミは、回収しても回収してもまだまだ存在する。今日も掃除だけで終わってしまいそうだ。
テレビの近くのゴミはすでにほとんどなくなっていた。もともと、このあたりはゴミが少なかった。カーペットに残っていた食器の欠片もすべて回収されている。おそらく、ホームセンターで購入したガムテープで張りつけて取ったのだろう。
食卓の付近はまだそこまで手がつけられていない。転がっているティッシュペーパーや食卓にへばりついた食べ物。一つ一つを丁寧に拭っていく。
「……」
黙々と作業する。江南さんも西川も静かだ。江南母も大人しくしている。
俺の心にも、先週の江南母の姿が残っていた。家具を運び出した俺たちに見せた、鬼の形相。
(わたしの言うことが聞けない?)
有無を言わせぬ口調だった。射殺さんばかりの視線。絶対に、同じような失敗は繰り返してはならない。
慎重に作業を進めていると、急にガサゴソという音が近くから聞こえた。その音は、キッチンの近くからしている。俺は、顔を上げ、目を凝らしてその正体を確認した。
そして、気づいた。
「あ、ゴキブ――」
みなまで言う前に、西川が声を上げた。
「キャッ! あ、あ、あ、あ……ご、ごごごごごごご……!」
さっきまで大人しかったのに、顔を青ざめさせ、勢いよく後ずさる。
「いや、わたし、ダメ。あれ、ダメ、ダメだ、だれか、だれか処分、処分、たすけ、たすけて……」
カタコト。よほど苦手らしく、例のアレ――ゴキブリが動くたびに「ひぃ」と悲鳴を上げた。
正直、俺もゴキブリはあまり得意ではない。うちでもたまに出てくるが、そのたびに苦労を強いられる。触れたくないからスプレーで弱らせてから捕まえて、外に逃がしている。奴らは素早いので、及び腰で対処するとなかなかスプレーをかけることもできない。
俺は、ふー、と息を吐く。
落ち着け。女子しかいないこの状況。俺が対処するしかない。
意を決して、ゴキブリに立ち向かおうとしたとき、江南さんが俺の横を通り過ぎた。
――え?
江南さんの足取りに迷いはない。一直線にゴキブリに向かい、手に持ったティッシュの空き箱を思い切り叩きつけた。
「……!」
余りにもスムーズな一連の動作。驚きのあまり、言葉を失った。
「……よし」
一発。ゴキブリは見るも無残な姿になった。江南さんは、ゴキブリの死骸を雑巾で拭い、何事もなかったように戻っていった。
呆然とする俺と西川。普段から、こういうことはよくあるのかもしれない。あまりにも鮮やかな処理であった。
江南さんは、ティッシュの空き箱と回収した死骸、雑巾をまとめて袋に入れ、袋の口を閉める。それから、なかなか掃除を再開しない俺たちを見て、怪訝そうな顔をした。
俺は思った。
――強い。
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