4. 江南母への説得

第34話 メガネ

「あ」

「あ……」


 俺と藤咲は、顔を合わすなり言葉を詰まらせた。


 朝の教室の中。緩やかな日差しが窓際から差し込んでいる。ドアを開けて中に入ると、すぐに藤咲とばったり出くわしてしまった。


 藤咲にカレーを御馳走した日から、土日を挟んで月曜日。気まずい空気になったのを感じながら、辛うじて声を出した。


「おは、よう……」

「おはよう……」


 目を合わせることができない。俺もまた、二の句が継げずにいた。


 ……あの日の帰り道。藤咲を送る途中で、藤咲から話された数々の言葉。あれは、ほとんど告白と同義だった。藤咲の気持ちには気づいていたとはいえ、ああいう状況になればしっかり返事をしなければならない。


 しかし、俺には何もできなかった。

 藤咲が離れるまで、立ち尽くすしかなかった。


 ヘタレにもほどがある。それでも、中途半端な気持ちで返事をするわけにはいかないと考えていた。だから、あのまま別れて、今日を迎えることになってしまった。


「……」


 黙することしかできないが、立ち去るわけにもいかなかった。気まずいときに気まずいまま終わらせると、そのあと、もっと気まずくなる。


 何か言おうと思った矢先、沈黙を切り裂いたのは第三者の存在だった。


「おっはよ~! なおっち、しおちゃん!」


 西川が、朝っぱらから高いテンションで話しかけてきた。ほっとする。藤咲も俺も、さっきまでが嘘のように表情を緩めた。


「おはよう西川」「西川さん、おはよう」


 ニコニコしている西川だが、やがて俺たちの様子を見て首を傾げた。


「朝から、なーに見つめあってんの? あ、もしかして邪魔しちゃった?」

「いやいや。そんなことないよ、なぁ、藤咲」

「そうだね、大楠君」

「う~ん、なんか怪しいなぁ」


 俺たちの反応に違和感を覚えながらも、西川は去っていった。見つけたクラスメイトに片っ端から「おっはー」と声をかけている。


 俺と藤咲は、小さく笑う。


「やっぱりすごいね、西川さん」

「うん……」


 コミュ力の塊だ。西川と話していると、場がにぎやかになる。このクラスのなかで、西川と話したことのない人間は一人もいないと思う。俺のようなオタクだけでなく、常に一人でいるようなやつにまで話しかけることがある。


「……そうだ。藤咲に渡すものがあったんだ」

「え?」


 俺は鞄からメガネとメガネケースを取り出した。紗香の机のうえに置きっぱなしになっていたらしい。


「忘れもの」

「あ、ごめん……。家に帰ってから気づいたんだけど……」

「いつもかけてたっけ?」

「ううん。そこまで目が悪いわけじゃないから、勉強のときくらいしかつけないかな」


 今まで藤咲がメガネをかけている姿を見たことがなかった。


「紗香ちゃんにはもう伝えてあるんだけど、明日は勉強見られないと思う。家族で食事に行くことになってるの」

「ああ、いいよいいよ。いつでも、時間があるときで」

「今日は先生がお休みで部活ないから、また紗香ちゃんに教えるね」

「ありがとう」


 朝のSHRの時間が近づいている。俺と藤咲は、それぞれ自分の席に戻った。

 いつも通りに話ができてほっとした。今日、学校に来る前からずっと不安だったのだ。いつかは返事をしないといけないとしても、気まずい関係になるのは嫌だった。





 放課後。


 江南さんたちに「先に行ってて」と告げてから、藤咲と紗香のいる図書室まで向かった。さすがに毎日ファミレスに行くのは難しいので、今日は図書室にすると聞いていた。


「あれ? クソ兄なんで?」


 俺が来たことに気づいて、声を潜めながら紗香が訊いてきた。


「一回くらいはな。藤咲に面倒かけてばかりなのも申し訳ないし」

「……あの美人はいいの?」

「あとから合流するって話してある。一時間くらいしたら出るよ」


 紗香の隣に座る藤咲は、今日渡したメガネを早速使っている。あんまりメガネ姿を見られたくないようで、目をそらされてしまった。


「ええと、今日は物理か」

「またわからないとこできちゃって……。感覚と合わないっていうか……」


 藤咲と俺は、問題集をのぞき込む。ばねの問題だ。


 二人で丁寧にどうしてそうなるかを説明する。数式だけ、理論だけ覚えようとするとどうしてもついていけなくなってしまう。教科書にはそういうところが省かれていることが多いから、苦労するのもわかる。


「う~ん、なんかわかったような、わからないような」


 こればっかりは、何度何度も問題を解いて、徐々に慣れていくしかない。


 他にもわからないところがあるみたいで、そのたびに俺と藤咲が解説していく。

 こういう時間も悪くない。自分の勉強をしながらだったが、楽しく過ごすことができた。


 一時間が経つのもあっという間だった。


「じゃあ、俺はそろそろ……」


 勉強道具をしまい、席を立った俺を紗香がにらみつけてきた。


「……前も聞いたけど、ほんとになにしてんの?」

「あんまり大っぴらにすることじゃないって前にも言っただろ」

「ふ~ん」


 納得してない様子の紗香。でも、こればっかりは仕方ないことだ。今さら、「やっぱりやめます」なんて言いたくもない。


 藤咲は、小さく手を振ってくれる。


「じゃあね」


 内心、どう思っているのかはわからない。告白した女を置いて、別の女のところに行くなんて、普通で考えれば褒められた行為じゃない。


 けれど、俺は藤咲の優しさに甘えることにした。「じゃあ」と言って、その場を後にする。

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