第33話 時間

「……あの」


 小さな声。集中していないと聞き漏らしてしまいそうだった。


「どうした?」


 何事もなかったようにふるまう。つい先ほどここに来たという可能性も考えられる。できる限り、藤咲の机の上を見られたくない。


「大楠君……。その……」

「藤咲……いつからそこにいたんだ」

「……安藤君に大楠君が近づいていったところから」


 嫌な予感は的中していた。最初から聞かれていたとなると、せっかく隠そうとしていたことも全部バレてしまったということになる。


「そう、か……」


 掌を開く。そこには先ほど回収したクイズ本の欠片。藤咲もそこにあるものが何かわかっているようで、申し訳なさそうに目を伏せた。


「ごめん、ね。わたしのせいで、こんなことになっちゃって」

「何度も言わせるな。藤咲のせいじゃない。全部、安藤とかいうやつのせいだ。でも、これ以上嫌がらせされることはないだろう」


 過ぎてしまったものは仕方がない。野口さんにでも事情を話して、もう一度買ってもらうというのも手だ。


「あんまり藤咲には見せたくなかったんだけどな。ちょっと温情を加えすぎたか?」


 藤咲はぶんぶんと首を横に振る。


「見てたかもしれないが、あいつは逃げてったぞ。ラケット置きっぱなしだから、いたずらでもしておくか?」


 まだ首を振りつづけている。


「そうか。じゃあ、適当に片づけて帰るか」

「……うん」


 俺は、手に持った紙片を捨ててから、藤咲の机の前に戻る。そこには、無造作に置かれたボロボロの本。そのまま捨てるわけにもいかないので、ビニール袋のなかに入れることにした。家で処理しておこう。


 その間、藤咲は俺のそばに立って、俺の様子を見ていた。さっきからずっと口数が少ない。申し訳なさが極まって、声も出せなくなっているのかもしれない。


 自分の鞄を背負いなおしたところで、藤咲が俺のブレザーをつかんだ。改めて見ると、すごく小さな手だ。振りほどこうと思えばできるが、そうするわけにもいかず立ち尽くす。


 俺は言った。


「……どうした?」


 たぶん、何か言いたいことがあるんだと思う。けれど、それを口にすることがなかなかできないのだろう。俺は、じっと待つことした。


 やがて、藤咲が言う。


「ありが、とう」


 途切れ途切れで、かすれた声だった。


「お礼を言われるようなことはしてないぞ」

「してる。わたし一人だけだったら、どうにもできなかったと思う。大楠君にだいぶ助けられちゃったね」

「そこはあれだ。俺も藤咲にはいつも世話になってるからな。多少の手助けくらい普通にするさ」

「……怖くなかったの?」

「……いや、そうでもなかったな。男対男だから、そんなに恐れる必要もない」


 強いて言えば、怖かったのはまた暴れてしまうことだった。藤咲の前で、そんな姿を見せなくて本当に良かったと思う。


「……大丈夫か?」

「あんまり、大丈夫じゃないかも」


 藤咲はさっきから俺と目を合わせようとしていない。藤咲の顔が少し赤らんで見えるのは、夕日のせいかどうかわからなかった。


「……藤咲?」


 そっぽを向きつづける藤咲は、どこか緊張しているように見えた。俺は、どうしたらいいかわからず、動くことができずにいた。


 藤咲は小さく言う。


「あのね、大楠君……」

「ん?」

「あのね……」


 なにかを話そうとしている。けれど、そこから先の言葉がつづかない。何か肝心なことを言おうとしているというのは伝わってきた。それが何なのかは、はっきりとはわからなかったけれど。


 どれくらい経っただろうか。藤咲は、そのまま何も言わず、俺のブレザーの裾から手を離した。そして、後ろに下がって、顔を上げる。


 すでに、その表情はいつもの藤咲のものに戻っていた。


「……どうした?」

「……ううん、なんでもない」

「ん、そうか」


 藤咲は、恥ずかしそうにニコリと笑う。





 俺と藤咲は、いつもの調子を取り戻し、いつものようにくだらない話をしながら帰り道を歩いていった。


 もう、安藤のことも、嫌がらせのことも頭から消えていた。


 楽しそうに藤咲が笑う。俺も、安心感を覚えながら思い切り笑う。


 ようやく、苦難が去って、元通りの生活に戻ることができた。


 それで、十分だと思った。


* * *


 ――それから約一年が経過して。


 俺と藤咲は同じクラスになった。二人してクラス委員長になり、図書委員だったときと同じように一緒になる機会が増えた。


 それはまた、別の話――。

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