第32話 制裁

「……おまえ、なん、で……」


 一歩二歩と後ずさる。俺と藤咲が選んだ本が、手のうえでも崩れる。これを藤咲が見たらどう思うんだろうか。優しい藤咲のことだ。きっと、俺に対して申し訳ないという気持ちを持つのかもしれない。


 俺は、本をいったん藤咲の机に置いた。


 目の前には、陽キャらしからぬ歪んだ顔。額に汗まで浮かんでいる。


「おい、何とか言えよ、おい!」


 取り乱して叫ぶ安藤に、俺は睨みだけを返す。


 安藤としては不思議だろう。俺は、この教室にいるはずのない人間。別のクラスの人間だ。放課後、急に教室に入ってくることは、本来ありえなかった。


「……なんだよ」


 俺のただならぬ空気を察したのか、安藤の声が震える。


 夕日が窓の外に残っている。赤っぽいオレンジ色の光が、目の端にちらついた。


 俺は、深く息を吸おうとする。


 自分の心臓の鼓動。脳裏に広がる真っ赤な色。視界が、ぐちゃぐちゃに曲がって見える。


 怒りが止まらない。


 あんまり感情を出すべきではない。俺の心がそう忠告する。不良だったころの俺が飛び出ようとしている。自分の感情の赴くまま、人に迷惑をかけることも知らずに好き勝手していた自分がまた復活しようとしている。それはダメだ。かつてそれが理由で失敗した。高校に入ってからは、大人しくしていようと決めたはずだ。そう思っているのに、もう一人の自分が語りかける。目の前のこいつを決して許すべきではない。藤咲を苦しめた元凶だ。たとえ、自分の決意をゆがめるとしても、暴力という手段に訴えることになるとしても、今ここに存在しているクズを懲らしめなければ、藤咲にまた危害が加えられる可能性がある。この怒りに一度身をゆだねてしまって、過去のことも全部忘れてしまって、もう何もかもを放り出してでも拳を固めて、テニスをやっているときとは別人のように醜い男を殴り飛ばして、喧嘩とも言えないほど思い切り一方的にボコして、もう二度と何もする気も起きないように心をつぶして――


 そこまで考えたところで、ハッとなった。


 視界の揺らぎがおさまる。脳裏を支配していた赤の色も引いていく。


 大丈夫だ。俺は大丈夫だ。さっきまでが嘘のように感情が収まっていく。


「……目的は、なんだったんだ」


 極めて冷静にそう問いかけた。安藤は俺の変化には気づいていないだろう。


「……」

「隠していたつもりかもしれないが、俺は、全部知ってるぞ。何回か、こうやって嫌がらせをしている姿を見ていたからな」


 これは嘘だ。藤咲が話したことは伝えないほうがいいと思った。


「当然、いくつかは写真を撮っておいた。俺がやろうと思えば、いくらでもこのことを暴露することはできるぞ」


 全部嘘だが、この状態では信じるしかないだろう。安藤の顔がますます歪んでいく。


「……どうして……」


 声が震えていた。


「……なんで、バレて……。ふざけんな、クソ、クソ、クソ……!」


 俺は一歩前に足を踏み出した。それだけの行動で、安藤は過剰に反応する。


「やめろ、やめろ、なんでもするから、なぁ。何も言わないでくれ」

「……」


 暴力などなくても、こんな小粒などどうにでも対処できる。


 俺は言った。


「質問に答えろ。なんでこんなことをした」


 安藤は気まずそうに目をそらす。言うべきかどうか迷っているようだった。あるいは、嘘の理由を改めて作ろうとしているのかもしれない。


 このままでは埒が明かないと思った俺は、自分の考えを伝えることにした。


「……告白した日のこと、黙っててほしかったんだろ?」


 目を剥いている。やはり図星だったようだ。

 俺はつづける。


「藤咲が告白されたところを、たまたま見ていたやつがいたんだ。そいつは言っても信じないと思ったから黙っていたらしいが、俺に教えてくれたよ。最初は普通に告白して、フラれただけ。そこまでは、噂通りの内容だった」


 藤咲が教えてくれたこと。その内容を聞いたときから、動機もある程度推測がついていた。


「だが、そのあとが問題だった。フラれたことに逆上したお前は、『なんでだ』と鋭い口調で問い詰めた。『好きじゃないから』と答える藤咲にますます逆上して、今度は腕をつかみ、『おかしいだろ』と訳の分からないことを叫んだ。どれだけ自分が優れた人間か、魅力のある人間かを力説して、強引に迫ろうとした……」

「やめろ!」


 安藤が息を荒げている。すべての始まりはここにあった。告白されたあと、藤咲に元気がなかったことにも納得がいく。


「お前は、後悔したんだろ? 今までは、爽やかなイケメンで通していたのに、フラれたことに驚いてクソみたいな本性をさらしてしまった。だから、どうにかして、そのことをしゃべらせないようにしなければならないとお前は考えた」

「うるさい……」

「嫌がらせをしているのが自分だとバレるのは百も承知のうえだった。藤咲に牽制をかけるための嫌がらせだ。もしかしたら、最初の嫌がらせのときに藤咲には伝えたのかもしれない。『あのことをしゃべったらどうなるだろうな』と」

「黙れ!」


 よほど口に出されるのが嫌だったようだ。けれど関係ない。


「ほんとに、クズだよなぁ。こんなクズだと知ったら、他のやつらはどう思うんだろうな。どんな嘘を吹き込まれたかは知らないが、テニス部の連中だってドン引きだろう」


 自分でもその自覚があるから、必死になって隠そうとしたわけだ。


「お前がいじめられるかもなぁ。女子には散々嫌われて、高校では彼女を作れなくなるかもしれない。テニス部では誰にも相手にされず、退部することになるかもしれないな。こんなにクズなら、当たり前だろうが」


 俺は、安藤の襟をつかんで引き寄せた。それから言う。


「このことを黙ってほしかったら、今後藤咲に対する嫌がらせは二度とするな。もし、つづけるようであれば、どうなるかわからないぞ」


 壁際に追い詰められた安藤は、体を震わせながらこくこくとうなずく。目には涙がたまっていた。


「俺は、お前のことを許さない。そのことを覚えておけ」


 襟から手を離すと、安藤はふらふらと後ろに下がる。


「……は、はは」


 それから、笑い声。よほど錯乱しているんだろう。


 安藤は、ラケットケースを置いたまま、教室から外に出て行った。

ドアが大きな音を立てて閉まる。


 俺は、大きく息を吐く。


 ――これでいい。


 甘いかもしれない。だが、俺にはこれ以上のことをする気にはなれなかった。

 でも、あんなクズなら、近いうちに自分でぼろを出すだろう。


 後ろを振り返る。


 さっきまでが嘘のように静まり返った教室。陰惨な嫌がらせが行われていたとは思えないほど空気が穏やかだった。藤咲の机の近辺に壊れた本が残っているが、それ以外は普通の教室でしかない。


 藤咲の机の近くに戻り、散らばった紙片を拾い集める。


 そのうち知ることになるかもしれないが、本がボロボロにされたことは隠しておきたかった。藤咲には、解決したという結果だけ伝えたい。


 紙片をおおむねかき集め、教室前方にあるごみ箱に捨てようと歩き出す。


 ガラ


 音が聞こえた。


 ――え?


 俺は、紙片を手に持ちながら凍りつく。


 安藤が出て行ったほうとは反対側のドア。


 そこには藤咲がいた。藤咲は、うつむいたまま俺のほうに体を向けている。


「……」


 藤咲は黙っていた。


 窓から差し込んだ光で、藤咲の足元には長い影ができている。藤咲の表情は、髪の毛に隠れてよく見えなかった。ただ、雰囲気が普段と違うのはすぐにわかった。


 俺は焦った。


 なんで、ここにいるんだ。まさか、俺の行動を予想して、俺と同じように部活が終わるや教室に向かったのか。でなければ、ここに来る理由など存在しないはずだ。


 それに、藤咲の様子がおかしい。いつもであれば、こんなに黙りこくることはない。


 ――まさか、ずっと話を聞いていたのか。


 そんなことが脳裏をよぎったとき、藤咲の口が開いた。

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