第20話 藤咲(20/5/24改稿)

「ねぇ、大楠君……?」

「うん?」


 足元には、長い影。弱弱しい街灯に照らされている。


 藤咲は、顔をこちらに向けずに言った。


「あのね、こんなこと言って、怒らせたらゴメンね……」

「大丈夫。藤咲になら何を言われても平気だ」


 実のところ、俺は動揺していた。こんな言いづらそうな顔をされるのは初めてだった。

 それでも、藤咲は恐る恐るこうつづけた。


「大楠君は、変わってるよね」


 ……変わってる、か。予想外の言葉に俺は拍子抜けした。


「そうか、俺は普通だと思ってるけど。あ、でもちょっと真面目だとは言われるかもな」

「そういうことじゃなくて……」


 ――やっぱり様子がおかしい。


 やたらと静かだ。お互いの声が、はっきりとした輪郭でこちらに伝わってくる。


「なんか、他の人とは別のことを考えてるような。ごめんね、うまく言えないんだけど」

「……よくわからないけど、そんなふうに見えてたか?」

「うん、見える」


 いつもよりゆっくり語りかけられるその言葉は、俺の耳に強く響いた。


「……それはずっと?」

「ずっとってほどじゃないかも。でもね。大楠君と話すようになって、少しずつ少しずつそう感じたかもしれない。別にね、それが悪いことだって言ってるんじゃないの。ただ、今言いたくなったの」

「そうか……」


 もしそうだとしたら、それは俺の過去が原因だ。


 表面上は、普通に、過去のことなどなかったかのように振る舞っている。けれど、俺の心の奥底には、ずっとあの過去が根付いていて、一度も離れたことはない。


 だから、学年で一番を取りつづけているし、道を踏み外すことを恐れている。

 そんな姿を見せないようにしているが、それでも、藤咲には察するものがあったのかもしれなかった。


「笑っていても、怒っていても、どこか遠くにいる気がする。表情に出ている感情と、その実、大楠君の持っている感情は、別のもの。心から笑ってないし、怒ってないし、何か別のところを見ながら、生きてるような、そんな感じがする」

「……」


 藤咲の言葉は、糾弾するでも、慰めるでもない。ただ、事実を淡々と述べているだけ。


 だからこそ、俺には刺さる。そんなふうに思われているとは知らなかった。


「怒った?」

「いや、もしそう思われてんのなら、俺の責任だ。今後気を付ける」

「わたしは気にしないよ。それも含めて大楠君だもん。ただ……」


 一陣の風が吹く。ひざ丈のスカートが揺れる。藤咲の目にかかる前髪や、首に巻きつけられたマフラーをはためかせ、上空へと吹き上がる。


「ただね、どうしても気になることがあって……。大楠君を困らせたいわけじゃないの」


 藤咲が、一歩一歩、こちらに向かって歩いてきた。


 俺との距離が、1メートルくらいまで縮まったところで止まる。夜闇のなかで、うるんだ瞳が見えてきた。俺は小さく息をのむ。


「大楠君は、どうして江南さんのことをそんなに気にするの?」

「え?」


 俺に、そんなつもりはない。いつだって、俺は受け身だ。江南さんが正門の前で待ち伏せしている。夜中、江南さんにラインを送られる。江南さんに、頼みごとをされる……。


 いつだって、俺の意志なんかじゃない。巻き込まれるように、江南さんのことを知り、江南さんと関わり、江南さんと話すようになっている。


 それだけのことだ。


「俺は、別に……」


 しかし、藤咲は大きくかぶりを振る。


「どこか遠くを見てるような大楠君でも、江南さんにだけは、まっすぐ見つめ返している気がするの。感情をちゃんとぶつけて、目の前のことに意識を向けて、接しているように見えるの。どうしてもそれが気になって……」


 また、一歩藤咲が近づいた。


「あのときだってそうだった。ファミレスで、江南さん、西川さんと一緒に勉強しようとしたときだって、大楠君、本気で怒ってたよね。今まで、あんなに真剣に、本気で怒った姿なんて見たことなかったのに、江南さんの前ではそんな感情をさらけ出してた」

「大げさだって……」


 そんな俺の声は、誰にも聞こえないくらいに小さかった。


「江南さんといるときの大楠君。生き生きとしてた。正門の前で、西川さんや江南さんと一緒に買い物してたときも、いつも見せないような顔になってた」

「……そんなこと、ない」


 強く否定できないのは、心のどこかで覚えがあるからなんだろうか。


「わたし、びっくりした。江南さんとよく一緒に帰るようになったのは知ってたけど、いつのまにそんなに仲良くなったんだって。わたしなんかには見せてくれなかった大楠君の顔をどんどん引き出していったんだって」


 俺は、とうとう言葉に詰まる。


 江南さんは、どこか俺と似ている。そして、俺の奥底にある感情まで一緒に引きずり出されるような、そんな感覚があった。


 だからなんだろうか。俺の表情が、違うように見えるのは。自分では全く意識してなかったのに、いつのまにかそうなってしまっていたのだろうか。


 自分で自分がわからない。


「大楠君」


 藤咲が、そう呼びかける。


「今日は、どうしてわたしを家まで招待してくれたの?」

「それは……」


 理由はいくらでもつけられる。紗香のため。お礼のため。けれど、望まれている言葉はそんなことじゃない。


 空気が痛かった。それは、冷たさだけが理由じゃない。


 下心が全くなかったと言えばうそになる。それは、前に紗香が指摘した通りだ。

 だからといって、付き合いたいとかそういうことを思っているわけでもなかった。


 俺は、黙り込むしかなかった。黙ったことをごまかすように、視線を動かす。川が水音を立てて流れている。


 これは、楔だ。

 過去にとらわれているが故の行動だ。そんなことはわかっている。


 確かに、未だ過去から抜け出せていないのかもしれない。少しは抜け出した気になっていたけれども、まだまだ俺は、深い穴の中に嵌ってしまっている。


 踏み出すのが、怖いのだ。


 俺は、自分に価値がないと思っている。自分には何もない。そして、空っぽのまま、がむしゃらに乾いたのどを潤すように、知識を体内に取り込んでいる。


 そんな価値のない人間が、誰かを好きになったりするなんてしてはいけないんだと思っている。母を間接的に殺してしまった楔が、俺の胸に深く突き刺さったままだ。


 俺にとって、今は、逃げ出したい状況だった。


 俺を見ないでくれ。俺のことなんか気にしないでくれ。どうでもいい、クソみたいな人間だ。こんなやつのことなんか、放っておいてくれ。


 だから、ずっと気づかないフリをしていた。


 藤咲が、俺のことを好きかもしれないということ。


 そして、今、藤咲は、一歩ずつ俺の気持ちに踏み込んできているということ……。


「ごめんね。どうしても、最近耐えられなくて……つらくなっちゃって……」


 とん、と俺の胸に何かが当たる音。


 びっくりした。藤咲がまさかそんな行動をとるなんて夢にも思わなかった。だって今まで、仲のいい友達として接するだけだったから。


 たまに、どきっとさせられたりすることもあった。でも、それ以上のことは一度もなかった。……一年くらい前のあの時を除いて。


「これが、わたしの気持ち……」

「……」


 それからしばらく、お互い何もしゃべらない時間がつづく。


 ただ、心臓だけが激しく動いている。


 感情がめちゃめちゃだ。うれしいという気持ちがないわけじゃない。でも、怖い、逃げたい、そんな焦りがあるのも事実だった。


 靴底の冷たさ。目にぼやっと広がる街灯の光。


 風が吹くたびに、体温が吸い取られていくような感覚。


 そして、胸のあたりから伝わる、藤咲の温度。


 俺は、何も言うことができない。


「……っ……」


 そんな自分が情けなく、それと同時に悔しかった。


 藤咲は、きっと勇気を出したんだと思う。でなければ、普段は大人しい藤咲がこんなことをしたりしない。


 男であれば、それ以前に人であれば、真正面から向き合って対応する。間違いなくそう言うことが求められている状況だ。


 こんなふうに、棒立ちになって、黙っている場合じゃない。


 わかっている。でも、俺には何もできない。


 藤咲の小さな息遣いが、胸に当たっているのがわかる。空を見上げる。


 そのとき、俺は、藤咲と出会った頃のことを思い出していた。

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