第19話 夜道
相変わらずの寝つきの良さで、すぐに和室からいびきが聞こえてきた。約束通り、食べかけのカレーにラップをかけて、黙って椅子の上に座る。
「……お父さん、大丈夫?」
「あれだけして体が大丈夫か、という意味なら問題ないと答える。けれど、頭が大丈夫かという質問には、首をかしげざるを得ないんだ……」
「もちろん前者だけど、うん、面白いお父さんだね」
気を使わせてしまったことを申し訳なく思う。
「あたしからも、父の無礼をお詫びします。藤咲さん、引かないであげてくれると……」
紗香の顔には、親父を殺したいとはっきり書いてあった。
「ちょっと、びっくりしたけどね。な、なんか、もう家族の一員みたいな言い方されちゃったし……」
きっと親父は、はしゃいでしまったのだと思う。俺が女の子を家に連れてくるのは、小学生のとき以来だ。今まで心配をかけてきたから、タガが外れたんだろう。だからといって、限度はあるが。
「ね、ねぇ……」
顔をうつむけたまま、藤咲が言った。
「食事の前に、お父さんと何を話してたのかな?」
「今日のカレーがちゃんと甘口になってるのか、気になってたみたいだな。あのとおり、辛いのが苦手だから、いつも甘口にしているんだ。そして、大の大人が甘口しか食べないことを知られたくなくて、こっそり俺に耳打ちしてきたんだ」
「クソ兄……饒舌」
紗香が訝しげな視線を向けてくる。
「そ、そうなんだ。わたし、てっきり……」
藤咲はそこで黙り込んでしまった。
この重たい沈黙は、すべて親父のせいだ。やっていいことと悪いことがある。
紗香が、ちらちら俺と藤咲を見て、戸惑っている。あいつが何を感じ取ったのかは知らないが、すごく居心地が悪そうだった。
「ふ、藤咲さん……ちょっといいですか?」
「え?」
紗香が、なぜか俺の顔を指さした。
「この兄の顔を、じっと見てくれませんか?」
藤咲は、首をかしげていたが、仕方なく従うことにしたらしい。俺の顔を真正面から見つめる。
こうやって見ると、やっぱり藤咲は可愛いなと思う。うちのクラスでも、藤咲に好意を寄せている男は多い。見た目はもちろんのこと、性格にも非がないので、好きにならない理由はない。
俺の目と、藤咲の目が合った。
すぐに、視線がそらされる。とはいえ、大きく外しているわけじゃない。俺のすぐ横に目線をずらしただけだ。
「これでいい? 紗香ちゃん」
「なるほど」
なにを納得したのかは知らないが、紗香が眉間にしわを寄せ、困ったような表情をした。
「お前は何がしたいんだ」
「クソ兄には関係のないことだから。そのまま呆けて生きてればいいよ。ここが戦場だったら背後から撃ち抜かれるくらいの呆けっぷりだけどね」
「ああ、そうかよ」
紗香の目には、軽蔑の感情が浮かんでいた。
しばらくして、全員がカレーを食べ終わる。藤咲は、もう一度「ありがとう」とお礼を言ってくれた。気に入ってくれたようで何よりだった。
「片付けも全部俺がやるからいいよ。藤咲と紗香は、勉強しててくれ。あと、あんまり遅くなるようだったら送るから、帰るとき声かけてくれ」
「そ、そこまではいいよ」
「藤咲さん。この兄のことなら気にせず、自由に使ってあげてください」
「送るって言っても、駅までだよ。大した手間じゃないし、大丈夫だから」
「うん。ほんとにありがとね」
二人は二階に上がっていった。
未だに、和室からいびきが聞こえてくる。このぶんだと、しばらく起きないだろう。
一時間半くらい経過したとき、藤咲が二階から下りてきた。俺は、家事をすべて終わらせ、一息ついたところだった。スマホで世界史の勉強をしていたが、藤咲が近づいてきたことに気づいて顔を上げる。
「そろそろ帰るね」
「わかった。コートとってくるから待ってくれ」
すぐに自分の部屋から回収して、袖を通した。親父はまだ寝ていた。もうこのまま朝まで起きないんじゃないかという気がしてきた。
二人そろって、玄関から外に出る。正直寒い。まだこの寒さには慣れない。
どこかで犬が喧嘩しているらしく、二種類の吠え声が夜闇を駆け回っている。夜になると喧嘩をしだすのか、それとも昼間は聞こえていないだけなのは俺にはわからない。だが、こういうのは決まって夜のほうが目立つ。
「チラって見えたけど、さっきスマホで勉強してたでしょ。『世界史ナビ』ってアプリ」
「よく知ってるな」
「わたしも使ってるもん。結構便利だよね」
スマホを持っていると、つい、スマホをいじってしまう時間がある。そのときにこのアプリを開けば時間の無駄にはならない。こういう積み重ねが、意外と大きな差になる。
「もう、隙あれば勉強してるんだもんね。勝てないわけだよね」
「まぁ、たまたまだ、たまたま。ちょうど勉強したいタイミングだったんだ」
「嘘」
実際嘘なんだけど。だが、あんまり勉強していると言いたくなかった。恥ずかしい。
ちょっと歩くと、すぐに橋が見えてくる。駅舎が煌々としているのが遠目からもわかった。
橋の中央辺りで、後ろから聞こえていた足音がやんだ。
振り向くと、藤咲が立ち止まっていた。
「ねえ」
その声は、小さかった。俺は首をかしげる。
「どうした?」
どうも様子がおかしい。俺のほうを見ようとはせず、斜め下に顔を向けていた。
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