第18話 仕返し
スプーンが藤咲の手から落ちて、口縁に当たる。ド直球でぶっこまれた質問に、明らかに動揺していた。
「ど、どどどどう思ってるっていうのは?」
「お、おおお落ち着けよ、藤咲」
動揺が俺にまで伝染してしまっていた。ニコニコしながら藤咲を見ている親父が憎たらしかった。なにが、俺に任せておけだ。身も蓋もなさすぎる。
「え? そのままの意味だけど」
「セクハラだからな、それ」
この親父、職場でうまく人間関係を築けているのだろうか。女性社員に対して、彼氏いるの? とか、あいつのこと好きなの? とか訊いてそうな気がする。でなければ、この状況でこんな質問はしない。
「いや、別に俺は――」
「うるさい、黙っててクソ親父」
紗香も親父を睨みつける。紗香からしても腹が立つ発言だったようだ。
「でも――」
「でも、じゃない。本当に黙ってて。ここで黙らないと、二度と口を聞かないから」
さすがにそこまで言われるとどうしようもない。親父は口を閉ざした。
「ごめん、藤咲」
藤咲は、スプーンを拾いなおす。
「ううん、気にしてないから。き、急に言われたからびっくりしちゃった……」
「この親父はあとで葬っておくから、カレーをゆっくり食べてくれ」
「うん」
一応大人しくなったが、どうして怒られているのか分かっていないようだ。首をかしげながらちびちび食べている。
「紗香、勉強はどうだ?」
「昨日よりは、イイ感じ」
順調に進んでいるようだ。藤咲もうなずく。
「やっぱり、紗香ちゃんは地頭がいいと思う。すぐ理解してくれるし、教える方も楽だよ」
「ならよかった」
が、ここで急に親父が復活した。
「藤咲さんは、紗香ともうまくやってくれてるんだね。ここまでくると、もううちの家族の一員みたいなもの――」
だめだ、親父を放っておくとろくでもないことになる。
そう思った俺は、すぐ近くに置いてある小さな瓶を手に取った。長さは10センチ程度。中には、赤い液体が入っている。
「親父、かけ忘れてたよ」
キャップを外し、問答無用で中身をぶちまける。カレールーに赤い液体が落ちて、黒ずんだ色に変色した。
「おい、おま、なにやって」
「ケチャップだ。問題ない」
瓶のラベルは外してある。ぱっと見、何が入っているのかわからないはずだ。
「え、でもそれタバス――」
「おいしいから食べてみてくれ」
親父のスプーンを奪い取り、黒く変色した部分をすくう。そして、親父の口元まで運んだ。
「お、おい、直哉。おい」
「俺を信じてくれ」
目が泳いでいたが、最終的に折れてくれた。小さく口が開いたので、そこに突っ込む。
「なぁ、ただのケチャップだろ?」
「あれ? 確かに、辛くないぞ」
しばらく咀嚼していたが、すぐにその顔が真っ赤に染まった。
「やっぱタバスコじゃねえええええかああああああああ!」
「おっと、間違えてしまったようだぜ」
好き嫌いの多い親父は、辛いものも苦手だ。あまりにも辛かったらしく、涙目になりながらコップのお茶をごくごく飲んでいた。
「お、お父さん、大丈夫ですか?」
「はぁ、はぁ……」
藤咲の言葉に返事もできないほど息を切らしている。普段、カレーは甘口にしてほしいと頼まれているくらいなので、タバスコの辛さでイチコロだ。
「直哉、もっと、もっと水を、くれないか……」
「仕方がないな」
席を立ち、親父のコップを持って台所に入る。冷蔵庫の中には冷やされた麦茶がある。
そのとき、俺の耳に再度親父の声が聞こえた。
「ふ、藤咲さん……」
ぜぇぜぇ、はぁはぁ言いながら、呼びかける姿は変態のそれだった。
「お、お父さん、って、今、言わなかったかい……?」
俺は、冷蔵庫から別の飲み物を取り出した。コップになみなみついで、親父の手元に運ぶ。
「ほらよ、さっさと飲めよ」
「ああ、ありがとう……」
よほど飲み物に飢えていたらしく、底がつきるまで一気に飲み干した。
「やっと、これで落ちつい――」
「あ、ごめん。間違えてビール入れちゃった」
「のどがいたああああああああい!」
自分の首をおさえながら、悶絶した。
ビールの炭酸がのどにしみたらしい。計画通りだった。
「クソ兄……」
「大楠君……」
やりすぎじゃないのか、という視線が突き刺さるが、俺の気持ちを分かってもらいたかった。和やかな食事のためには必要な犠牲だと思う。
「直哉、直哉、あんまりじゃないかぁぁ。俺は、お前のためを思って――」
そして、計画はこれだけではなかった。親父のもう一つの弱点。
「――思ってだなぁ……アレ? ああ、世界が回ってるよ、直哉」
酒に弱い。辛さだけでなく、酔いも回って、さらに顔が赤くなっていた。平衡感覚が保てないらしく、さっきから首をぐるぐる回している。
「直哉。あれ~、俺、なにやってるんだっけ。カレーがどこにも見当たらないよ。スプーンはあるんだけど、食べるものがないよ。どこ行ったんだよ」
もちろん、カレーはさっきから親父の目の前にある。だが、そんなこともわからないくらいに朦朧としている。
「ごめんごめん、間違えてビール飲ませちゃったせいで、酔っちゃったね。無理しないほうがいいよ。カレーにはラップかけておくから、酔いがさめたあと食べればいいよ」
「よくわからないけど、そうする~」
親父の肩を持って、すでに布団が敷いてある和室まで運ぶ。こうなったら、最低でも3時間は復活できない。
「許してくれ。でも、親父が悪いんだぞ」
布団の上に寝かせたあと、そうつぶやいた。
すぐに食卓まで戻る。と、紗香が大きくため息を吐いた。
「ま、自業自得か」
俺は、小さくうなずいた。
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