第15話 後退

 いつのまに起こしてしまったのだろう。俺たちが来ていることを知り、さらにリビングにまた戻ってくることも予想し、ここで待っていたのだろうか。


「な、んですか?」


 声が震えてしまうのは、謎の威圧感に気圧されているためだ。

 江南母が何を考えているのか俺には全く分からない。


「今、なにをしているの?」


 抑揚のない、のべっとした口調だった。感情が乗せられていないからこそ、その裏に強烈な感情が渦巻いているように感じられた。


 代わりに江南さんが、前に出た。


「昨日言ったでしょ。リビングの掃除をしてる。それだけ」


 江南母は、目を大きく開いて、口を閉じた。


 それから、展望台の双眼鏡のように、首だけを動かしてリビングを見渡した。怖かった。黙っているのが不気味だった。江南さんの言葉がよみがえる。


(母さんも大人しいから、今のうちにね)


 まずいことになったのではないかと思った。


 推測するに、江南母は、リビングという場所に対して強く固執している。


「それにしては、こことかあそこにあった家具がないわね。どうしたのかしら。あれがないと困るのだけど」


 困るもなにも、壊れているから使えないだろう。しかし、そんなことをはっきり言える雰囲気ではない。


「掃除のあとに戻すのかしら? そうよね?」


 その目は、まっすぐに俺の目に向けられていた。瞳の奥に、体が吸い込まれるんじゃないかと錯覚するほどの眼力だった。

 江南さんが、俺と江南母の間に立つ。


「捨てる」


 だから、あっさりと宣言されたことに、俺は驚きを隠せなかった。


「要らないものだから、捨てる。壊れていて危ない。新しい家具を買ったほうがいい」

「す、てる……?」

「そう」


 西川と目が合う。お互い、どうすればいいかわからず、困惑していた。


 壊れた家具を捨てるだけのこと。ただ、それだけのこと。当たり前のことをしているだけなのに、これほど空気がピリつくのは、いったいなぜなのだろう。


「母さんは、心配しなくてもいい。恐れる必要も、不安になる必要もないよ。ただ、わたしに任せてくれればそれでいいから」


 その言葉は、江南母に届いているように思えなかった。さっきから表情に全く変化がない。声がそのまま耳を素通りしているんじゃないか。


 そんなことを思ったとき、江南母が動いた。

 リビングの扉を開けて、廊下を歩きだす。あわてて、俺たちもそのあとにつづく。

 江南母は、玄関の前に積まれた家具を見た。立ち止まり、首を動かさず、腕を垂らしたまま、ただそこにいた。


「……手伝いなさい」


 俺たちの返事も待たず、置かれていたテーブルの端っこをつかんだ。持ち上げようとするが、力が入らないのだろう。すぐにあきらめ、それを強引に引きずり始めた。


「梨沙!」


 大きな声。江南母の口からそれだけの大声を初めて聞いた。


「わたしの言うことが聞けない?」


 そんなことを言いながら、ずるずると引きずりつづけている。床とこすれてくぐもったような音が響く。それでも江南母は気にした様子がなかった。たとえ床が傷ついたとしてもかまわないのだろう。


「早くしなさい」


 この狭い廊下では、逃げ場も回り込むためのスペースもない。前から迫ってくる江南母に対して、俺たちはゆっくりと後ずさるしかなかった。


 鈍い音を立てながら、テーブルがリビングに戻ってきた。廊下との接地面は、擦れて跡が残ってしまっている。


 江南母は、結局自分一人の力で、テーブルをテレビの前に置きなおしてしまった。

 足は折れたままなので、手が離れた瞬間に、ばん、と床に激突する。


「ここに戻してどうしたいの? 折れたままだよ」


 江南さんは、優しい声色で問いかける。あまり刺激をするべきでないと判断したのだろう。それに対して、江南母は、一切の反応をしなかった。足が折れていることに気づいていないわけがない。そんなことは、どうでもいいのだと言わんばかりだった。


 一つ戻して満足したのだろうか。江南母は、また食卓の向こう側に敷かれた布団の上に横になった。


 そこに残されたのは、壊れた家具と呆然とする俺たちだけ。


 そして、むせかえるほどの沈黙だけだった。


 ようやく、江南さんが言っていた意味が分かった。掃除すれば、リビングに多少の変化を与えることになる。そのことを嫌がる江南母が邪魔をするんだ。たとえ、人が住むような場所じゃなくても、風邪で寝込んでいても、その変化を許したりはしない。


「どうする……?」


 西川の目が泳いでいた。江南さんが言った。


「嫌な目に合わせてごめん。こういうふうに邪魔されても、少しずつ掃除を進めていくしかないと思ってる。じゃないと、いつまで経っても終わらないから」


 確かに、家具の一つが戻されたとはいえ、それ以外は玄関に置かれたままだ。振出しに戻ったわけではない。


「ほんと、ごめん……」


 江南さんが、また落ち込んでいた。その顔には疲労の色がはっきりと見える。


 今回だけじゃない。過去にもたくさんこのようなことがあったのだろう。だからこそ、前に進むことができなかった。


 江南母の事情は分からない。無理な変化は、刺激を与えるだけかもしれない。あきらめるべきか、それとも進むべきか。どちらかが正しいのか俺にはわからない。


 だが、江南さんがそれでもつづけるということならば。

 強引にでも、一歩ずつ前進するしかない。俺もそう思った。

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