第12話 文句

 今日のうちにできたことは、すでに袋詰めされているものを引き取ってもらうことだけだった。数が多すぎるため、ゴミ捨て場に置くことはできず、業者にマンション前まで来てもらい、最低限の分別だけして手渡した。


 それだけでも重労働だった。なにせ、リビングを覆いつくすほどあったのだから。マンションとの往復だけで相当の時間を費やした。


 くたくたになった俺は、18時ちょうどくらいに家に着いた。


 ゴミにずっと触れていたから、先にシャワーを浴びる。それから、夕食の準備に取り掛かった。

 夕食を終えて、食器を洗っているときに、紗香が俺に話しかけてきた。


「クソ兄」


 いつもよりも声が低いなと思った。

 俺は水を止めてから、紗香の顔を見た。


「どうした?」


 今日は、2時間ほど勉強を見てもらったらしい。家に帰った時間は、俺とほぼ変わらなかった。


「前にも訊いたけど、クソ兄ってあの美人と付き合ってるの?」

「は?」


 何を言っているのか理解できない。そんなわけないと前にも答えただろう。そう言うと、紗香の顔が不機嫌そうになる。


「へー、付き合ってないんだ。たまに一緒に帰ってるけど付き合ってないんだ」

「そうだ」

「あの美人、他の人と全然会話しないらしいのに、クソ兄とはよく話してるんだってね。なのに付き合ってないんだ」

「……」

「今日、なぜか一緒に買い物してたみたいだけど、それでも付き合ってないんだ」

「……待て、なぜそれを知っている?」


 まだ、紗香たちには教えていなかったはずだ。が、すぐに思い出した。

 ホームセンターから出て江南さんの家に向かう途中、学校の前を横切った。そのシーンを見られていたとしたら。


「……見てたのか?」

「そうだよ」


 俺は、内心冷や汗をかいた。その可能性を全く考えていなかった。

 もちろん、俺に悪気などない。だが、見たときになんと思われたのか。


 人に妹の世話を任せておいて、自分は別の女の世話をしていたのである。しかも、そのことを黙っていた。どう考えても、悪い印象を受けることになる。


「……なぁ、そのときは、お前だけか?」


 紗香は首を横に振る。


「なわけないじゃん。藤咲さんも一緒だったよ」


 最悪だった。江南さんとの用事を優先して、妹の世話を押し付けた形になる。さぞかし、不愉快な思いをさせてしまっただろう。

 もしかしたら、噂になって、どのみち藤咲の耳には入ったのかもしれない。もっと早く言えばよかったと後悔する。あまりにも不誠実だった。


「すまん……」


 紗香が怒るのも当然だろう。


「もう一度訊くよ。あの美人と付き合ってるの?」

「違う」


 あくまで頼みごとをされただけだということを伝える。もともと、一週間くらいで終わらせる予定だったことも、そのあとは紗香の勉強を見るつもりだったことも、言い訳がましくならないように話した。


 それで、紗香が納得するかは別問題だったが。


「クソ兄に訊きたいんだけど、いい?」


 訝し気な視線はまだ俺に突き刺さっていた。


「藤咲さんとクソ兄の関係ってなんなの?」

「それは……」


 つい返答に困ってしまうのは、自分の中で整理できていないためだろう。ぽちゃん、と水滴がシンクに垂れる音が聞こえる。


「一番仲のいい、女友達……」


 ひねり出した答えがそれだった。他に思い浮かんだ言葉はどれもピンとこなかった。紗香は、苛立ったように両腕をさすりながら、俺を見上げる。


「藤咲さんって、可愛くて、優しくて、本当にいい人だよね。クソ兄のこと、ちゃんと見てくれてるんだなってわかったよ。そんな人を裏切るなんて最低だよね」

「はい。でも裏切ったとかでは……」

「黙る」


 有無を言わせない。よほど腹に据えかねているのだとわかる。


「今日、藤咲さんに勉強教えてもらって、大好きになったよ。あたしの理解が遅くても嫌な顔一つせずに優しく接してくれた。クソ兄に怒っているはずなのに、『大楠君には大楠君の事情があるんだよ』って言ってたんだよ。なんてできた人なの」

「……お、怒ってなかったんだな」

「調子に乗らない」

「はい」

「ここでもう一つ質問。クソ兄が、明日すべきことは何でしょうか?」


 さすがの俺でも、紗香の言わんとしていることはわかる。即答した。


「明日真っ先に藤咲に謝ります。そして、事情を改めて説明します」

「よろしい」


 見られると思わなかった、なんて言い訳にはならない。誠心誠意謝るしかない。

 藤咲のことだから、気にしてないよ、と言ってくれるかもしれない。だけど、その言葉に甘えてしまってはいけない。何らかの形で、お詫びをしないといけないなと思う。


「ちなみに、どういう事情なの?」


 紗香の質問は、俺の思考を止めるのに十分だった。


 今日見たことを思い出す。江南さんの母親に会った。ひどく汚い部屋を見た。江南さんの背負うものの一端を見た気がした。


 アレは、誰かに教えていいものでは決してない。

 匂わせるようなことさえも言ってはならない。

 そうでなければ、江南さんが俺を信用してくれた意味がなくなる。


「悪いが、かなりプライベートなもので、教えられない」


 それが精いっぱい。俺が話せる内容はそれだけだ。


「あっそ」


 紗香の顔がまた不機嫌そうになる。


「じゃあ、クソ兄。明日、頑張ってね」

「ああ」


 去っていく紗香の背中を見ながら、俺は心の中で謝る。勉強を見てあげたい気持ちはある。だが、一度引き受けた以上は、責任を全うしたいという思いもある。


 俺は、水道の蛇口をひねって、水を出す。洗いかけの食器をスポンジでこする。

 いつもよりも、手に触れる水の温度が冷たく感じられた。

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