第11話 江南母

 すぐにわかった。江南さんの母親だ。

 確かに熱があるようだ。顔は紅潮していて、目が虚ろだった。


 想像よりも、見た目が若い。江南さんの母親だけあって、中年にもかかわらずそこそこきれいだった。正直、もっと汚らしい姿を想像していた。体は細く、髪が長い。

 なぜかこんな奥まったところに布団が敷かれていた。その布団のうえで寝ていたようだ。


 俺は二の句が継げなくなる。


 すると、目の前の人は、あぁ、と声を出した。


「――梨沙のお友達? どうしたの?」

「え?」

「お友達でしょ?」


 江南さんの母親に動揺の色は見られない。俺はおそるおそるうなずく。すぐに江南さんと西川が、俺の背後まで来る。


「あら、他にも……。いらっしゃい……」


 背後の西川に対してそう言った。西川とも初対面なのだろう。口調は柔らかかった。目尻の下がった両目には、言葉以上の感情がこめられていなかった。


 この人が、江南さんの母親……。


 俺は、困惑していた。


 一見、普通に見える今の会話。俺には違和感しかなかった。

 なぜなら、この場が悪臭と大量のゴミに支配された空間だからだ。赤の他人が、自分の家のそんな姿を見ている。にもかかわらず、恥ずかしさや戸惑いを一切感じていない。


 それだけじゃない。なんでこんな場所で寝ているんだと思う。

 平然とした表情だった。きれいな空間で、布団を敷いて、寝ているときと変わりない。


 この異常な空間のなかで、異常性を感じていないことが異常なのだ。


「母さん、二人をここに連れてきたのにはわけがある」


 江南さんが、俺の前に出た。しゃがみこんで、ゆっくりと語りかけている。


「今から、この部屋を掃除しようと思ってる。さすがに、放置しすぎたから。手伝ってもらうために二人を呼んだ」


 その言葉に対しても、江南母の反応は鈍かった。そーぉと穏やかに答えるだけだった。


「初めまして、西川です。梨沙ちゃんとは仲良くしてもらっています」


 西川が頭を下げた。俺もつづく。


「大楠です。初めまして。江南さん……娘さんのクラスメイトです」

「あら、ご丁寧に」


 江南母は小さく会釈する。不気味だった。なんでこの人はこんなに平然としていられるんだろう。鼻が慣れたということなんだろうか。


「悪いんだけど、母さん。この部屋からいったん出てもらってもいい? 全部片づけたいから。そもそも風邪を治す場所としては最悪だし」

「そう? わたしは出て行く必要性を感じないけど……」


 穏やかだった江南母の表情が少しこわばった。笑顔を顔に張り付けているが、その笑顔は感情を表していないと感じた。


「母さん……。この部屋、見える?」


 そして、江南さんが振り返る。

 ゴミの山。壊れた家具。人の住む場所とは到底思えない場所。

 しかし、江南母は相変わらずのほほんとしている。


「当たり前でしょう。それがどうかしたの?」


 言いづらそうに、江南さんが目を泳がせる。怖がっているんじゃないだろうか。それから、意を決したように、まっすぐ母親のほうを見つめた。


「この部屋は、人が住めるような場所じゃない。だから、ちゃんと生活ができるようにしたいの。わかって」


 はっきりとそう言い切った。俺は、江南母の反応が気になり、まじまじとその顔を見る。


「……」


 無言だった。言われる前と後で、表情に全く変化がない。聞こえていないのではないかとさえ思えてくる。

 穏やかな笑みを浮かべつづけている。時が止まったかのようだった。身じろぎ一つせず、首を動かさず、じっとその場で江南さんに目線を返している。


 恐ろしかった。

 俺は、その反応を見て、なにかまずいことが起きているように感じた。

 その直感は正しかったのだろう。江南さんは露骨に焦っていた。すぐに言った。


「わかった。さっきのことは忘れていいから。その代わり、わたしたちの邪魔はしないで」

「ふふ、そんなことしないわよ」


 そして、すぐに江南母の時間が動き出す。俺は胸をなでおろした。


 いったい、さっきの一瞬、何が起こったのだろう。地雷を踏んでしまったのは間違いない。なぜかは知らないが、このリビングにいることに、異常な執着があるようだ。


 江南さんは、静かにリビングの外へと歩き出す。俺と西川は、顔を見合わせながらそのあとにつづいた。


 廊下に出て、リビングのドアを閉める。


 江南さんが、片手で頭を抱えて、立ち尽くしていた。


「あんな感じ……」

「なるほど」


 俺には何かを言う権利などない。だが、まともじゃない、とまで形容された理由の一端が理解できた。


「梨沙ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫。わたしは慣れてる」


 普段から、会話は少ないんだろう。慣れていると言う割に、疲れているように見えた。


「とりあえず、方針を決めよう。まずは、あの大量のゴミをどうにかしないといけない」


 俺は、そう言った。


 今、江南さんの母親について考えてもしょうがない。俺らなんかではどうしようもできないことだ。きっと何かがあった。その結果なんだろう。俺なんかが想像もできないような江南家の歴史がそこにはある。


「リビングのゴミを玄関口まで持っていくことから始めようか! 家の中をあんまり見られたくないなら、すぐに渡せるようにしておかないとね」


 このときばかりは、西川の明るさがありがたかった。

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