第10話 汚部屋

 江南さんの母親がそこにいるとしたら、俺たちの存在をどう思うのか。俺は、その点が気がかりだった。俺たちが家に上がっていることに気づいていないとしたら、急に俺たちが現れたことになる。怖がらせてしまわないか心配になる。


 リビングの扉がやたらと厚く感じる。


「わたしも、実はあの向こうに入ったことがないんだよね……」


 西川が言う。


「梨沙ちゃんには、入らないほうがいいって言われてたから。でも、そのときは人の気配がしっかり感じられた」


 今、リビングの向こうに人の気配はない。物音もない。光の動きもない。

 正直言って、不気味だった。江南さんの表情に影が落ちている。俺なんかが関わっていい領域なのだろうか。


 しかし、すでに掃除に必要なものは買ってしまった。今さら引き返すわけにもいかない。


「間違いなく、あそこにいるから。最初に言ったけど、無理だと思ったらやめていいから。わたし一人で対処する」

「う、ん」


 もちろん、一度引き受けた以上、最後まで全うするつもりだ。それでも、そこまで忠告するのは理由があるんだろう。

 俺たちは、江南さんの部屋を出て、廊下を渡り、リビングの扉の前に立った。


 異臭が鼻を吐く。

 さっきまでは気づかなかった。わずかにある隙間から、変な臭いが漂っている。


「何の臭いだ……?」


 江南さんは、答えない。


「開けるよ」


 そして、リビングの扉が開けられた。


 まず、最初に感じたのは、異臭がさらに強くなったこと。さっきまでは、ちょっと鼻を覆いたくなるくらいだったが、今は、呼吸を止めたくなるくらいの強い臭いを感じた。


 次に、江南さんの背中越しに、リビングの全貌が見えてきた。

 反対側の窓から、青い空と小さなバルコニーがあるのがわかる。


 そして、その手前の光景に俺は絶句した。


 例えるのであれば、台風が去ったあと。暴風や暴雨にさらされ、秩序だって置かれていたものが、破壊され、ひっくり返される。テーブルは、普通四本の足で支えられて立つ。しかし、そこにあるのは、足の二本が折られ、ソファにもたれるように沈んでいる姿だった。


 部屋全体が、めちゃくちゃだった。その部屋のなかに小さな台風ができて、部屋のなかを暴れまわり、その後、修復することなく放置したかのようだった。


 広さは12畳ほどだろう。ダイニングキッチンがあり、もともとは綺麗な空間だったのではないかと思える。床は柔らかいフローリングで、天井がそこそこ高い。しかし、今見る限りでは、とても人が生活できるようには見えない。


 カーテンレールからつるされたレースカーテンは、びりびりに破かれている。真ん中が大きく裂かれていて、わずかなつなぎ目で下部が垂れさがっている。理由はわからないが、血の跡まであった。


 キッチンと食卓の間にはゴミが大量に積まれていた。蠅が数匹たかっている。おそらくだが、異臭の原因は大量のゴミのせいだろう。いったいいつから放置されているのか考えるのが恐ろしかった。


 ――江南さんの母親はどこにいるんだ?


 見渡す限り、どこにいるかわからない。そこにあるのは無秩序に散らかされた無機物ばかりだ。


「想像、以上、だね」


 西川は、鼻をつまみ、目を細めた。


 とてもじゃないが、一日で終わるレベルではない。水回りも掃除することを考えると、とてつもない重労働になる気がする。


「江南さんは、この部屋に入ることあるの?」

「……基本的に入らない」


 そうだろうなと思う。家にいる間、江南さんはずっと部屋にこもっているのだろう。


「だけど、母親が生きていることを確認するために、たまに中に入る。生きていることだけ確認出来たらすぐに出て行くけど」

「そうなんだ……」


 俺は、異臭に耐えながら、前へと進んでいく。


 まともに歩くことも困難だ。食器の破片が、カーペットの上に散らかされている。それも、一つや二つじゃない。だから、ときおり足の裏がちくりと痛んだ。


 エアコンから、わずかに駆動音が聞こえる。少し暖かい風が、肌に当たる。


 食卓のうえに積まれたゴミ袋を見る。ティッシュペーパーや機械製品、本などが透けている。ごはんごと茶碗が捨てられたごみ袋まであった。


 とにかく、いろんなものを詰め込んでいるようだった。生ごみもあるから、腐ってしまったのだろう。近づいたせいで、さらに鼻に衝撃が加わる。


 ――なにをどうしたらこんな状態になるんだ。


 実際には、家の中で台風は発生しない。人為的に破壊されたものだ。不摂生により、部屋が荒れるケースは聞いたことがある。しかし、この部屋のように、ありとあらゆる家具に衝撃を与えてめちゃめちゃになったケースを見たことがなかった。


 とにかく、ここにあるゴミを全部処分しなければ。


 と、俺が、考えたときだった。


 食卓を挟んだ向こう側。壁戸の隙間、およそ1メートルくらいのところから、物音が聞こえた。


 ――誰かいる?


「……ぁ」


 小さな声。呻くような声。明らかに女の人のものだと分かった。


 しかし、山のように積まれたゴミ袋のせいで、誰がいるのか判然としない。俺は、つばを飲み込んでから、食卓を回り込むようにして反対側をのぞき込んだ。


 そこには、髪の乱れた中年の女性の姿。


 目が覚めたばかりらしく、上半身だけを起こして目をこすっているのが見えた。

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