第5話 関係性

 江南さんらしからぬ小さな声だった。西川はすでに事情を知っているようで、表情を変えていない。

 江南さんは、スプーンを回しつづけ、カップに当たるたび乾いた音を鳴らした。浮足立っているような感じがある。よほどの事情があるんだろう。


「わたしの母親は、今、精神的にまともな状態じゃない。人に見られたら、変な噂が立ちかねないから、極力家にあげたくないわけ。でも、さすがに、家の状態を放置することも難しくなったからこうして頼んでる」

「……なるほど」


 おそらく、江南家事情の半分も伝わってきていない。しかし、俺に頼みごとをしてきた意味がようやくわかってきた。


「だけど、まだ掃除と料理をお願いしたい理由がわからない。なんで急に?」

「それは……」


 後ろ髪をかきあげ、斜め前に視線を向ける江南さんは、異様に画になっていた。改めて思うが、本当に美人だなと思う。普通の人であればなんてことはない仕草、振る舞いが、煌びやかに見える。


「最近、風邪が流行っているのは知ってる?」

「ああ、そうなんだ」


 確かに、部室の中でも体調の悪そうなやつがいた。西川が、カップを置いて前のめりになる。


「1年とか、ひどいよ~。すでに数十人休んでたと思う。うちのクラスにはまだ波が来てないけど、時間の問題かもね」

「知らなかった」


 紗香がピンピンしていたから、1年の間で風邪が流行っているだなんて思っていなかった。


「今、母親も風邪にかかってる……。だけど、部屋が汚いうえ、料理を作れる環境でもないから、まともに看病もできない感じで。落ち着いて寝かせるために、少しでも掃除して、料理もして、治してあげたい」

「そういうことね」


 前に、江南さんと話したことを思い出す。「大切な人」の話。

 今になって、そういうことをしようと思うのは、江南さんの心境の変化にも起因するのかもしれない。もしそうだとしたら、俺に断ることなんてできない。


 それに……。


 俺は、自分の顔にある傷を触る。


 母親のために何かしたいという気持ちは共感できた。俺にはもうできないことだから、うらやましいという思いもあった。


「いいよ」


 だから、すぐにそう答えた。


「でも、どこまで力になれるか自信がない。なにせ、江南さんの家の状態がわからないから」

「それでもいい。ありがとね」


 江南さんが、ちょっとほおを緩ませる。たいていの男はその表情でイチコロだろう。


「よし! なおっちの参加も決まったし、作戦立てよう! まずはいろいろ買い物しなきゃだよね~。掃除するために必要なものを、ホームセンターで買おう!」


 西川の言葉に、江南さんがうなずく。


「一応、予算として2万円くらい持ってる。とにかく、捨てるものが多いから、ごみ袋を大量に買っておきたい。あと、水回りの掃除のために必要なものも」

「そうだね。明日、じっくり考えよう。なおっちもそれでいい?」

「ああ」


 とりあえず、明日以降、部活は休むことにしよう。部長は寂しがるかもしれないが、一時的な手伝いにすぎない。

 ただ、いつ終わるのかは、江南家の汚さによる。よほどひどければ、一週間では終わらないことも考えられる。逆に、大したことがなければ、一日で終わってしまう可能性もある。


 そのとき、西川が、にやにや笑っていることに気がついた。


「どうしたの?」


 訊くと、にやにやしたまま答えてきた。


「いや、なおっちと梨沙ちゃん、本当に仲が良くなったんだなと思って。今まで、梨沙ちゃんと話す人は少なかったもんね」

「西川。うるさいよ」

「いいじゃん! 保護者的な立場からすると、うれしいもんだよ。梨沙ちゃんも男の子と話せるようになったんだなと、感慨深い気持ちになるよ!」

「勝手に保護者にならないで」


 俺と江南さんがまともに話す姿を見るのは、西川からすると初めてかもしれない。ただ、俺としても、西川と江南さんの会話をしっかり聞くのは初めてだった。


 本当に仲がいいんだなというのが感じ取れた。


「梨沙ちゃんは、こんな性格だけど、根はいい子だから。見捨てないであげてね」


 俺は、わざと偉そうに腕を組んだ。


「しょうがないな」

「は?」


 目の前の顔がこわばる。


「今のちょっと生意気だったね。調子に乗ったね」

「いや、西川の言う通りだぞ。もっと友達作れるようになってから言おうな」

「ふ~ん」


 江南さんの目が細められる。俺は目をそらす。

 すると、西川がからからと笑いだした。なぜか腹を抱えている。


「いや~梨沙ちゃんがここまで心を開いているのは珍しいね! こんなに楽しそうな梨沙ちゃんを見るのは久しぶり」

「楽しそう?」


 聞き捨てならないというように、江南さんが、西川を睨みつけた。


「だって、いつもよりも口数が多いから」

「これくらい普通でしょ」

「梨沙ちゃんは普通じゃないから」


 釈然としない様子の江南さんに向かって、さらに爆弾を投下した。


「そのうち、二人は付き合い始めるんじゃないの?」


 俺と江南さんの目が合う。それから、二人そろって、

「「それはない」」

と鼻で笑った。


 絶対にありえないと思う。江南さんなんて気難しい人と付き合ったら疲れてしまいそうだ。藤咲のほうが可愛らしくていい。


「怪しいな~」


 それきり、西川は俺たちの中について言及しなかった。

 適当に話をつづけたあと、午後六時前に店を出た。

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