第二章

1. 江南さんからのお願い

第1話 登校

「いって!」


 べり、っという音を立てて顔から剥がされた。強い痛みが走ったので、俺はその場所を手で押さえる。紗香が俺の反応に対して面倒くさそうな顔をする。


「いちいちうるさい」


 紗香の手には、剥がされた絆創膏がある。俺の顔についていたものだ。

 制服姿の紗香が、別の場所に貼られた絆創膏にも手を伸ばす。必死に逃れようとするが、紗香の手のほうが早かった。再びべりっという音がする。


「いったい! 容赦ないな、お前」

「ゆっくり剥がすほうが痛いでしょ」


 家のリビング。俺と紗香はソファの上に座っていた。すでに、俺の傷は治りかけだ。小さな傷口はほぼ塞がり、残っているのは比較的重症だったところだけ。未だに顔に絆創膏を貼っているが、徐々に枚数は減っていき、今や3枚だけになっている。


 まぁ、3枚を少ないと思えることが異常だけど。


 最後の1枚も、勢いよくひっぺがされる。紗香はその3枚を適当にくるんでテーブルのうえに置いた。


「おっけー」

「もう、ここも貼らなくていいんじゃないか?」


 俺は、スマホを取り出して自分の顔を見た。

 目元の腫れはすでに収まっている。一時期は目を開けたり閉じたりするだけで痛みが走ったが、何も感じなくなっている。顔のところどころにあった青痣は見る影もない。小さな傷跡がまだ残っているが、遠目で見ればわからない程度だ。


 いつまでも絆創膏を貼ったまま登校するのは恥ずかしい。


「まだ。確かに良くなったけど、完全じゃないから」

「大丈夫だって」

「ダメだね。戦場なら、これくらい気にならないかもしれないけど」


 ……すでに、怪我を負ってから一か月近くが経とうとしていた。


 11月の半ばだ。肌寒くなってきたせいで、最近は暖房を入れないといけなくなってきた。つい2か月前まではあんなに暑かったのに、嘘みたいに気温が下がってしまった。今の時期に川に飛び込んだら、きっと風邪を引いていただろう。


 そういう意味では、そこまで寒くないときでよかったと思う。


 あれから、特に問題は起きていない。あの不良たちと関わることはなくなった。相手の望みを叶えたうえで脅したため、無理に関わろうとしなくなったようだ。きちんと成果が出たのであれば、これくらいの怪我は安いものだ。


 朝の陽ざしが窓から差し込んでいる。閉め切っているが、冷気がそこから漂っているのがわかる。

 食卓で朝食を食べていた親父が、こちらに振り向いた。


「おいおい。今日の飯、卵焼きがしょっぱいじゃないか」


 相変わらず文句が多いなと思う。紗香に絆創膏を貼られながら答える。


「たまにはいいだろ」

「え~。俺は甘い卵焼きが好きなんだよ。しょっぱいのなんて邪道だろ」

「うるさいな。そんなに言うなら朝ごはん作ってあげないぞ」

「う~む」


 どちらも良さがあると思う。偏食の親父にはわからないかもしれないが。


「ちなみに、今日の弁当にもこのしょっぱい卵焼きが入ってるのか?」

「当たり前だろ」

「せっかくの俺の楽しみが……」

「しつこい。弁当を作ってやってるだけありがたいと思えよ。朝早く起きて、準備するのは結構大変なんだぞ。自分でやってみる?」

「すみません!」


 あわてて前を向き、料理をかきこんでいる。

 俺と紗香は顔を見合わせる。お互い、思っていることは同じらしい。親父にはもっとしっかりしてほしいと思う。


 母さんが生きているときもそうだった。だらしなさマックスの親父の面倒を見ていた。服のセンスもなく、適当に重ね着することも多いため、着る服を選ぶことさえもあった。私服OKの職場であるからこそ、親父のセンスの悪さがそのまま表れてしまう。


「クソ兄。終わったよ」


 紗香が救急箱を閉じる。

 朝、絆創膏を替えるのが日課となっていた。なぜか自分がやらなければという使命感に駆られているらしく、いつも欠かさず手当てをしてくれている。


「ありがとう、紗香」


 紗香は、無言で立ち上がって、棚の中にしまう。そして、自分の鞄を肩にかけて、リビングから出ようとする。


「わたし、もう行くから」


 出る直前、顔だけこちらに向けてそう言った。

 すぐに、扉が閉じられる音が聞こえる。すでに、時刻は7時20分だ。始業時間が8時10分なので、そこまで余裕はない。


 俺も、鞄を手に持つ。親父の背中に向かって声をかける。


「俺ももう行くよ。いつも通り、食器だけ片付けておいてくれ」


 親父は、高く上げた左腕をぷらぷらさせる。


 リビングを出て、玄関で靴を履く。紗香は、いつものローファーを履いたらしく、玄関からそれだけがなくなっていた。


 外に出る。


 いい天気だ。天気予報によると、今日は一日中晴れているらしい。空には雲一つない。


 今日も頑張ろうと、気合いを入れる。





 教室に入ると、すでに齋藤が席についていた。いつもは遅刻ギリギリにもかかわらず珍しいことだと思う。


 おはようとあいさつすると、向こうもうぃーすと返してくる。なぜか本を読んでいた。ブックカバーがついているので何を読んでいるのかよくわからない。


「何を読んでるんだ?」


 齋藤が顔を上げる。そして、ちらっと内容を見せてきた。俺はドン引きした。


「朝っぱらから……なんでそんなものを」


 少しだけ見えたのは、18禁感バリバリの挿絵だった。おそらくだが、エロ小説を読んでいる。すごく真剣な顔をしていたから真面目な本だと思った俺がバカだった。しかし、端から見ていて、エロ小説を読んでいるようには見えない。


「いや、これがよぉ。すげえんだわ」


 その目も真剣だ。一流アスリートのスーパープレイを見たときのような食い入り方だった。俺は呆れた。


「はあ……?」

「本当にすごいんだぞ。もうとにかくすごいんだぞ」


 熱弁されるが、ますます心が冷めていくだけだった。性を覚えたての中学生みたいだ。


「最近ハマったのか?」


 齋藤は大きくうなずく。


「俺、こんな世界があるなんて知らなかったぜ。漫画とはまた違う。新しい扉を開けてしまったようだぜ……」

「よ、よかったな」

「何冊か持ってきたから、お前も読もうぜ」

「いや、別にいいや」


 俺がオタクであることはすでに知られているが、さすがにエロ小説を読むのは憚られる。というか、オタクとか関係なく公衆の面前でエロ小説を読むのはどうなんだろうか。


 中間テストが終了したおかげで、緊張感が消え失せている。テストの解説もすべて終わったし、最近はいつものように授業が行われるだけだ。


 席に座った俺は、鞄の中から問題集とノートを取り出す。


「おいおい。俺の誘いを断っておいて勉強か? どれだけ勉強が好きなんだ?」

「別にいいだろ。ほっといてくれ」


 来年には受験も控えている。今から多少の準備をしたとしても、早くはない。

 学校の授業自体も、受験に向けて、範囲のほとんどを網羅している。あとはどれだけ習熟度を上げられるかだ。東橋大学に受かるためには、他の受験生とは差をつけないといけない。


 さらさらと問題を解く。しだいに、教室内の人が増え、騒がしくなっていく。


 気づくと、始業まで残り5分となっていた。朝練をしていた勢も、教室に入ってくる。


 進藤や藤咲、西川も気づけば教室の中にいる。俺は、なんとなく自分の列の一番後ろに目を向けた。


 江南さんの席。そこには、まだ人の姿はない。


 俺は、顔を前に戻す。


 結局、あれから一度も遅刻をしていない。授業態度はきわめて普通。先生に指されれば素直に応じるし、反抗的な口答えをしなくなってきた。


 人の慣れとは恐ろしいもので、そんな光景にもさして驚かなくなっていた。以前、朝に江南さんがいないのを当然と考えていたように、朝に江南さんがいるのが当たり前だと思っている。


 ……なのに、今日は、珍しく遅いな。


 そんなことを考えるが、すぐにその考えを打ち払う。


 なんで俺が江南さんのことなんか気にしなくちゃいけないんだ。


 俺は、勉強を再開する。


 問題を1問解いたところで再度顔を上げる。まだ、江南さんが来ている気配がなかった。黒板の上の針時計を見ると、残り2分しかない。


 何をやっているんだ、と苛立つ。真面目になったんじゃないのかと思う。


 秒針が容赦なく回る。十秒、二十秒、三十秒……。残り1分を切り、徐々に朝のSHRの時間が近づいていく。


 担任の城山先生は、いつも8時10分ちょうどくらいに教室に入る。だから、あまり猶予はない。他のクラスの生徒たちも教室に戻りはじめたようで、廊下から物音が聞こえなくなってきた。


 と、そのとき、廊下のほうからぱたぱたという足音が聞こえてきた。


「……」


 俺は、なんとはなしに、足音が聞こえる方向に目を向けた。


 足音は徐々に近づいてくる。急いでいるとわかる足音だ。そして、その足音は教室の前で止まり、すぐに扉が開く音へと変わる。


 ガラッ


 そこには、一人の女子生徒の姿。珍しく、少し息を荒げている。


 間に合ったのか。ちょっと安心している俺がいた。


 入口に立っているのは江南さんだ。完璧な姿じゃない。少しだけ髪の毛が乱れている。


 ほぼ同時に、チャイムが鳴る。


 江南さんは、大きく息を吐く。何事もなかったように歩きはじめる。


 教壇を端から端まで渡り、俺の机の前でいったん止まった。


「おはよう」


 挨拶。俺は、素直に返す。


「ああ。おはよう」


 その言葉を聞いてから、江南さんは自分の席に向かう。すぐに先生も教室の中に入ってくる。


 先生は、教室後方にいる江南さんを見て、満足そうにうなずく。教卓の前に立ち、出席簿を置いた。


「起立! 礼!」


 日直の号令がかかる。そして、いつもの朝がまた始まった。

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