第54話 部屋

 俺は、誰もいないことを確認してから服を脱ぐ。水がしみこみすぎて、服が重かった。おそらくこのまま歩いたら、水が滴り続けるだろう。


 脱いだ服を絞る。下着も絞る。これ以上、絞れないと思ったところで再度身にまとう。


 さっきよりはだいぶ楽になった。


 普通に立つだけなら、水も垂れてこないだろう。


 俺は、橋の下から出る。河川敷を上がって、一般道に足を踏み入れる。


 そこにも誰もいない。


 ただ、静かな夜の街が視界に広がっていた。


 こんな姿、誰にも見られたくなかった。ズタボロの情けない姿。見られたら、訝しく思われることだろう。俺は、すぐにフードをかぶった。


 腫れあがった顔も、傷だらけの体も、フードや袖のおかげで隠すことができている。4年前もそうだった。喧嘩に負け、ボロボロになった姿を見られるのが恥ずかしくて、フードを深くかぶってポケットに手を突っ込んで歩いた。


 一歩一歩が重く感じられる。


 足が悲鳴を上げる。特に右足の損傷がひどい。普通に歩こうとすると、痛みに耐えられなくなる。


 川沿いを進んでいくと、街灯に照らされてきらきら輝く水面が見える。橋を渡り、家のあるほうへと向かう。街灯の数が徐々に多くなってくる。俺は、顔をうつむけて、たまにすれ違う人に顔を見られないようにする。


 やがて、家の前にたどり着いた。


 家の窓から、明かりが漏れている。まだ、二人は俺がいなくなったことに気づいていないのだろうか。俺は慎重に玄関のドアを開けた。


 家の中は、出かけたときと大きな相違がない。リビングからはテレビの音声が聞こえてくる。俺は、足音を立てないように靴を脱いで上がり框を乗り上げる。


 ただ、それでも甘かったようだ。


 階段を上がろうとしたとき、その先にある紗香の部屋の扉が開いた。


 紗香は、俺を見た。


 そして、あわてて駆け下りてくる。


「な、なにその怪我! てかどこ行ってたの?」


 やばいと思って、顔をそらす。つい、腫れあがった顔面を見せてしまった。


 でも、もう遅かった。紗香は俺の袖をつかんで、俺を強引にリビングまで引きずっ

ていく。リビングの扉を開けると、テレビをのんびり眺める親父の姿があった。


 紗香が叫ぶ。


「お父さん! お父さん!」


 そして、親父が俺たちのほうへ顔を向ける。その瞬間、親父の表情が凍りついた。

 俺は、逃げようと踵を返す。だが、その場にいる二人ともそれを許してくれなかった。


「直哉! どうしたんだお前!」


 いつもは見せない機敏さで俺に歩み寄ってくる。そして、フードを外し、俺の顔を両手でつかむ。冷え切った俺の頬は、その手を温かく感じた。


 答えに窮した俺は、小さな声で言う。


「別に……」

「別に、じゃない! 早くその傷を見せてみろ!」


 親父が勝手に俺の服をはぎ取っていく。

 そこにあるのは、傷だらけの体。明らかに、何かがあったと分かる姿だった。


「おまえ……」


 親父も紗香も言葉にならないようだった。

 かつて、俺が不良だったときにもここまでひどい怪我を負うことは少なかった。一方的に殴られるなんてことを許さなかったからだ。


「気にしないでくれ。寝ていれば治る」


 服を取り返そうとするが、親父が背中に隠す。

 そんな目で見ないでくれ。俺は本当に大丈夫だ。


 次に、紗香が、俺の腕をつかんだ。紗香は、少し泣きそうな顔をしていた。昔みたいなひどい兄に戻ったと勘違いさせてしまったのだろうか。


「大したことじゃないんだ。ちょっと不良に絡まれて、一方的に殴られただけだ」

「……いいから、そこに座って」


 指さされたのは、さっきまで親父が座っていたソファだった。


「大丈夫だって」

「昨日、あたしに言ったこと忘れたの? 昨日、勝手に手当て始めた人のセリフじゃない」

 と強引に座らせられる。俺はあきらめることにした。確かに、紗香のことと自分のことでやってることが違いすぎる。


 紗香は、俺が買った包帯やガーゼを取り出した。救急箱もテーブルの上に乗せる。消毒液を、まず俺の傷口にかける。


「いって」

「我慢」


 傷は全身にある。その一つずつに、乱暴に消毒液がかけられる。こういうのあんまり慣れていないんだろう。目に入りそうになるときもあった。


 親父が言う。


「これじゃ、足りないな。コンビニで調達してくる。紗香、頼んだぞ」

「うん」


 そして、親父が外に出て行く。


 なんだか大げさになってしまった。病院にまで行けと言われそうだ。そこだけは死守しようと思いながら、消毒液攻撃を食らいつづける。


「……紗香。いったん消毒はあとにして、一部だけでもガーゼをつけてくれないか」


 同じ傷口に二回噴射されることもあった。傷が多すぎてどこを消毒したのかわからなくなってしまったらしい。


「わかった」


 紗香は手先が器用ではない。ガーゼの当て方も、テープのつけ方もあまりきれいじゃなかった。紗香の手がいつもよりも温かく感じる。


 五分くらいして、親父が帰ってきた。絆創膏や軟膏など、買えるものを大量に買い占めてきたらしい。袋いっぱいに医療品が詰まっていた。


「買いすぎじゃない?」

「替えのことも考えたら、多すぎることはない」


 紗香の反対側で、親父も治療を始める。左腕を紗香が、右腕を親父がつかむ。俺は、手持ち無沙汰になってしまった。下着だけだが、部屋が暖かいおかげで寒くない。俺は、軟膏が塗り付けられたり、絆創膏が貼られる様子を黙って見ていた。


 10時をすぎて、ようやく終わった。


 服はすでに洗濯機に入れられてしまった。風呂に入りたかったが、こんな状態では入ることもできない。出かける前に一度入ったからいいかとあきらめる。


 親父は言う。


「それで、なにがあった?」


 さっきと同じ説明をする。コンビニに行こうとしたら、不良に袋叩きにされたという設定だ。半分正解なので、嘘と見破られることはないだろう。


「どうしてだ?」


 俺を責めるでもなく、慰めるでもなく、憐れむように問いかけられる。


「どうして、俺をもっと頼ろうとしないんだ」

「……」


 別に、そんなつもりはない。

 俺はただ、俺の思うがままにやっているだけ……。


 親父が、俺の頭を抱きかかえる。親父の胸の中で、俺は小さく息をする。


「もっと、頼っていいんだ。お前は、自分を責めているのかもしれない。だが、誰もお前を責めたりなんかしない。だから、安心して、いいんだぞ。頑張りすぎなくてもいいんだぞ」


 親父の声は優しい。俺は、ああ、とその胸に返事をする。





 自分の部屋の中に戻った俺は、大きく息を吐いた。


 ――まだ、俺は寝るわけにはいかない。


 電気をつけた俺は、改めて、部屋のなかを見渡す。


 少しだけ開いた窓から流れてきた風が、いくつもの紙を揺らしている。


 ぱらぱら、という音。そして、壁に立てかけられた文字がなびく。


 部屋の壁一帯に、たくさんの紙が貼りつけられていた。


 ――学年一位死守

 ――東橋大合格

 ――金持ちになる

 ――努力しつづけろ

 などなど。


 俺が思いつくままに、書きなぐった文字だ。新しい目的のために頑張り始めたとき、自分を奮い立たせるために、書いて書いて書きまくった。そして、壁中に貼りつけまくった。


 少し歩くと、勉強に使用したルーズリーフが足に当たる。


 もう一歩進むと、山積みにされた問題集が膝にぶつかる。


 紗香の部屋が汚いなんて、言えないなと改めて思う。


 勉強のためだけに費やした場所だ。部屋にいると、過去をどうしても思い出しそうになる。狂いそうになる。だから、勉強のことだけを考えるようにしてきた。


 がりがりがりがりと、ペンを立てて、ノートに文字を書く。そうしていると、自分の目の前から邪魔なものがすべて消えた。まっさらになった。勉強することだけに集中することができた。


 俺にとって、勉強は救いだった。


 一度だけ、勉強している自分の姿を鏡ごしに見てしまったことがある。その時の俺の目は血走っていた。怖い顔をしていた。必死に、過去から逃げつづける男の顔をしていた。


 だから、俺は、本気で勉強している姿を誰にも見せてはいけないと思った。


 本気で集中して勉強するのは、あくまで自分の部屋の中でだけ。


 そうでないと、俺は自分の人格が疑われる。


 俺は、机の前の椅子に座る。


 デスクライトをつける。机の上には、置きっぱなしにしたノートと参考書。勉強はまだ途中までしか進んでいない。


 満身創痍であるにもかかわらず、ペンを手に取った。


 こんなことくらいで、俺は勉強をやめるつもりはない。


 参考書を開き、内容に目を通す。ペンを動かす。問題を解く。答え合わせをする。


 とにかく、書く。


 頭を勉強に集中させる。


 ペンを使えば使うほど、頭が冴えていくのがわかる。


 痛みなんか、感じなくなる。


 今日感じた辛さや苦しさも消えてなくなっていく。


 そのうち、俺は無我の境地に陥っていた。明日がテストだとか、一番を狙い続けていることとか、全部が目の前のことに塗りつぶされていく。


 視界が狭まっていく。


 あらゆる五感の機能が失われていく。


 もう、俺は、こんな生き方しかできない。


 走って走って、走りつづける。


 ずっとずっと、努力しつづけ、母の死を遠い場所に追いやっていく。


 たとえ、いつか立ち止まらなければならないときが来るとしても。


 もう、走ることができないと途方に暮れるときが来るとしても。


 限界の限界まで、前を見据えて走りつづける。


* * *


(――俺は、もう二度と大切な人を見失ったりしない)


 母の葬式の日。山崎と会った俺は、静かにそう言った。


 俺の声は枯れていた。風にかき消されそうなくらいかすれた声だった。


 言葉にして吐き出さないとつぶれてしまう、心が壊れてしまうと思った。だから、懸命に、必死に声を紡いでいた。


 山崎は、そうか、とだけ答える。


(だから、お前とも、もう会わない)


 その言葉にも、山崎はうなずき返すだけだった。


 俺は踵を返す。


 緩やかな風が、土埃を巻き上げる。目を細めて、目元に手を当てて、ゆっくりと歩き出す。


 ――どうするべきかなんて、見当もついていなかった。


 俺には何もない。それはずっと変わっていなかった。


 でも、俺は気づいた。大切な人はまだ存在する。俺はその人たちのためだけに生きていくことができるのだと。


 だから、俺は今までも、これからも進みつづける。後ろは、振り返らない。

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