第53話 休息

 濡れた服が肌にぴたりと貼りつく。


 風が吹くたびに、体から体温が奪われる。


 スマホの光がやたらまぶしく感じられる。


 江南 梨沙:ねえ、聞いてる?


 俺は、どうして江南さんから届いた言葉を見て、ほっとしているんだろう。俺の体の調子は最悪だ。傷が痛むし、寒い。なのに、どうして俺は返信を書くために文字を打っているんだろう。


 そんな疑問がわいても、俺の手は止まらなかった。


 大楠 直哉:聞いてるよ


 あれだけのことがあったのに、頭の中は冷静だった。さっきまで早まっていた心臓の鼓動も収まっている。


 江南 梨沙:わかんないところがある


 江南さんは、画像で問題文を送ってきた。どうやら、物理の問題のようだった。俺は、ざっと目を通し、内容を把握する。


 こんな状態で、勉強を教えろってことなんだろうか。笑いそうになる。


 痛みは波のように襲ってくる。その波が急に来て、顔をしかめる。痛くないところなどない。骨は折れていないと思うが、ひびくらいは入っているかもしれない。


 風の音。俺は腕を縮めながら、画面をタッチする。


 大楠 直哉:どこがわからないんだ?

 江南 梨沙:えっと……


 途切れ途切れに、どこでつまずいているのか教えてくれる。俺はその話を聞いて、どうやれば理解してもらえるのかを考える。別に根本から理解していないわけではない。


 大楠 直哉:そこなんだけど……


 ちょっと長めの文章を返す。すぐに江南さんから返信が届く。


 江南 梨沙:でも、そう考えると、ここが……

 大楠 直哉:いや、そうじゃない。そもそも……


 あのときみたいだ。ファミレスに連れてこられて、一緒に勉強した。俺の言葉をすぐ理解する江南さん。そして、会話はトントンと進んでいく。


 痛みも忘れていた。俺は、ひらすらに文字を打ちつづけた。


 江南 梨沙:ありがと。よく理解できた


 本当に、前と比べて素直になったな。俺は、不思議な気持ちだった。


 大楠 直哉:ああ


 明日からテストだということを思い出す。結局、今日はあまり勉強ができていない。藤咲と勝負すると決めたのだから、本気で俺も挑みたい。


 髪の毛からぼたぼたと雫が落ちる。頭から足元までびっしょりだった。画面にも水滴がいくつもついてしまう。反応しないように服で拭うが、服も濡れている。俺は結局諦めることにした。


 橋の上を自動車が通る音が聞こえる。スマホに通知が入る。


 江南 梨沙:テストが楽しみなのは、久しぶり


 俺は、驚く。そして、ちょっと嬉しくなる。


 きっと、江南さんの点数が急に上がったら、先生たちは驚くんだろうな。不真面目になって勉強しなくなってから、赤点も多いと聞く。


 どんな結果になるか、俺も楽しみだった。


 江南 梨沙:今、そっちも勉強中?


 その言葉を見て、俺はなんと返すべきか迷う。


 まさか、河川敷の草っぱらで、満身創痍の状態になっているなんて想像もできないだろう。今の姿を見せたら、江南さんはなんて言うんだろうか。


 俺は無難な返答を打つ。


 大楠 直哉:疲れて、寝転がってる

 江南 梨沙:なにそれ笑


 意味不明だよな。俺自身も、なんでこんなことになってるんだろうと思ってしまう。


 身体の痛みも、精神的な疲弊感も、すべては俺自身の咎によるものだ。かつて、母を自分のせいで失い、今度は、妹に危機を招いてしまった。人は簡単に成長しない。同じ過ちを繰り返しそうになることもある。


 こうして、川のそばで自然堤防に寄りかかっていると、心が凪いでいく。


 やるべきことはすべてやった。もう妹に危機が訪れることはないだろう。山崎にも頭を下げて、一応動向をうかがってもらうが、相手の願いは叶えたはずだ。


 相手を倒すこと自体は簡単だ。あの不良たちは決して強くない。だが、何度倒したところで意味はない。俺への恨みを強くするだけだ。


 だから、その因縁を断ち切った。


 思う存分殴らせてやった。俺の体などどうなろうが構わない。取り巻きにも、俺に勝つ姿を見せつけることができた。もう、俺にかまう理由はない。


 手段は選ばない。目的のためならば、どんな苦行だって背負う。


 俺はそう決めている。


 大楠 直哉:ねぇ、教えてよ


 俺は、気づいたらそう書いていた。なんのこと? と江南さんが訊いてくる。


 大楠 直哉:江南さんにとって、大切なものってなに?


 いつぞやに話したことだ。


 俺にとって、大切なのは、家族。その言葉に何ら嘘はない。ずっとそう思ってこの4年間を生きてきた。母が死んでから、俺を支え続けていたのはその考えだった。


 江南 梨沙:教えない


 でも、やっぱり、江南さんは江南さんだ。俺なんかに教えてくれるわけがない。

 スマホがまた震える。


 江南 梨沙:本当に疲れてるんだ

 大楠 直哉:うるさい


 ずっと後ろを見ず、突っ走ってきた。


 自分のやるべきことだけに目を向けて、そのことだけを考えてきた。走って走って、何度か振り返りながらも走って、今は少しだけ休んでいる。


 でも、その時間ももう終わりだ。


 俺には、待っている家族がいる。


 家に帰らなければならない。


 大楠 直哉:じゃあ、俺は勉強するよ

 江南 梨沙:わかった


 スマホの画面を落とす。

 こんな時間もたまには悪くはない。

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