第52話 安堵

 川から上がると、最初に夜空が視界に入った。


 痛みが再びぶりかえす。さっきまで感じていなかったのに、今は痛くて痛くて仕方がない。体の感覚が戻っている証拠だ。


 腕も、足も、顔も、腹も、全てが痛みを発している。水がしみたことで、普通にけがを負うよりも痛みが強い。


 でも、まだ我慢できないほどじゃない。


 俺は、川岸の草をつかむ。


 ゆっくりと川から這い出る。手をつき、肩で息をする。


 顔を上げると、すでに、不良たちはその場を立ち去ろうとしていた。俺は叫ぶ。


「待て!!!」


 できる限りの大声。その声に気づいた不良たちがこちらを向いた。


「逃げんじゃねえ!!! こっち来い!!!」


 まだだ。まだ、俺の役目は終わっていない。


 最後までやり通さなければ意味がない。俺は、まだやれるとアピールするため、鋭い目つきでリーダーをねめつける。


 はっ、と鼻で笑っているのが、遠目にもわかる。


 ボロボロの俺を見て、一人で十分だと思ったようだ。リーダーの男だけが、俺に向かって歩き始めた。


 川底で拾ったものを手で覆い隠す。


 リーダーの男は、俺のすぐそばで見下ろしてくる。


「まだやるのか?」


 にやっと笑っている。俺は、その顔を見て、ああ、と笑い返す。


 また、俺を川に突き落とそうと、足を持ち上げた。その瞬間を狙った。


 持てる限りの力を使って、立ち上がり、相手の襟をつかむ。そして、持ち上がっていないほうの足を払って後ろに倒れこんだ。


 俺の上に、リーダーがのしかかるような形になる。


 相手の頭を抱え込む。俺は、右手に持っていたものを首に押し付けた。


「これがなんだか、わかるか?」


 ひやっとした感触を感じているだろう。リーダーは、その言葉を聞いて凍り付く。俺の目を黙って見つめている。


 まさか、という声が聞こえそうな表情だった。俺は、目を細める。


 少し力を込めて押すと、ひ、と情けない声を出した。


「どうだ。楽しかったか? これだけ俺を殴らせてやったんだ。もう満足しただろう。下手糞な攻撃ばかりであくびがでそうだったが」


 半分嘘だが、半分本当だ。嘘が混じっていることなどおくびにも出さず、つづける。


「そういえば、さっき、俺の妹をどうにかする話してたよなぁ?」


 左手で首筋を撫でていく。相手の体がびくんと揺れる。さらに、右手の押し込みを強くする。


「もし、それを実行に移したら、お前を殺すから」


 耳元でささやく。恐怖を助長するように、一音ずつはっきりと。


「必ず、殺す。どんなところに逃げようとも、追いかけて殺す。首を掻ききるだけじゃない。手足を削ぎ、股間をつぶし、目ん玉をえぐる。痛みで死んでしまうくらいの苦痛を与えて、どこまでも追いかけて殺す。忘れるな」


 そして、俺は相手を足で突き飛ばす。ふらふらと、数歩下がって、その場に座り込む。


 リーダーは、はは、と乾いた笑いをもらす。口元がひくついていた。


 にらみつけると、すぐに立ち上がり、逃げるように走っていく。取り巻きたちには何が起こったかわからなかっただろう。あいつの面子は保たれているはずだ。


 不良たちがいなくなったのを確認してから、仰向けに倒れこむ。


 ようやく、終わった。


 腕をだらんと下げる。さっきまで握っていたものを開く。


 そこにあるのはただのガラス片だった。とにかく、相手をビビらせることができればなんでもよかった。


 ガラス片を川に向かって投げる。ポっという音を立てて、沈んでいく。


 俺は、仰向けのまま、夜空を見た。


 星はほとんど見えない。月もないため、まっさらな空だ。


 大きく息を吐く。


 どれほどの時間が経ったのだろう。もしかしたら、大して長い時間ではなかったのかもしれない。けれど、俺にはすごく長く感じられた。


 さっきまでが嘘のように静かだった。水音が聞こえる。全身ズタボロのせいで、息をするたびに体のどこかが痛む。


 腕を見ると、血だらけだった。あざも出来ている。


 家に帰らなければ、と思うが、体が思うように動かなかった。いくら相手が喧嘩慣れしてないとはいえ、無抵抗の人間を痛みつけることくらいはできる。少々油断していたかもしれない。


 俺は、体を起こす。


 全身が一気に悲鳴を上げる。通常時のように足を持ち上げることはできなかった。足をひきずりながら足を進めていく。


 橋の下まで移動する。


 事前に、置いていたスマホを見つける。川に落とされることも考えていたから、服のポケットに入れたままにはできなかった。


 自然堤防にもたれかかりながら座り込む。スマホを手に取り、電源をつけた。


 時間を見る。ここに来てからまだ30分も経っていなかった。


 ということは、俺が家を出てから1時間近くだ。親父を心配させたくない。無理を押してでも帰らなければ。


 そう思って、スマホを閉じようとしたときだった。


 スマホが震えた。


 あ、と思う。また、昨日のように、その人の名前が表示されている。


 俺は、少しだけ笑う。こんなときに、受け取るとは思わなかった。


 通知を叩くと、メッセージの内容が表示された。


 江南 梨沙:今、大丈夫?


 それを見て、俺の体から力が一気に抜けていく。

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