第51話 絶望
結局、母は死んだ。
即死だと言われた。死ぬ間際、少しだけ動いていたのを見たが、医師の判断はあくまでそのようなものだった。
幻かもしれない。俺の願望が見せた幻。しかし、どっちにしろ同じだ。
もう、母は戻ってこない。
もう、母と話すことはできない。
もう、母に謝ることはできない。
気が狂いそうだった。その時になって初めて、俺は取り返しがつかないことをしたのだとわかった。
どうして、もっと母と向き合おうとしなかったのだろう。
俺が殺したのと何ら変わりはない。こんな結果を招いてまで、俺は何がしたかったんだ。
確かに、中学受験はクソだった。嫌な思いもたくさんした。反動で、今までしてこなかったことをしようとしてしまった。
だからといって、こんなふうに荒れていい理由にはならない。
いったい、どれだけの負担をかけただろう。どれだけの心配をかけただろう。
失って初めて、俺はその重さを理解した。
葬式のとき、紗香も親父も号泣した。俺はその泣き声を聞きながら、自分が責められているような気がしていた。全部俺のせいだ。俺のために夜遅くに探し回り、俺のために身を挺して守ろうとした。
俺だけ、のうのうと生きて、母だけが死んだ。
その事実を受け入れることができなかった。
俺の素行の悪さは、親戚も、近所の人も知っていた。
俺に直接言わなくとも、その視線が俺に突き刺さるのを感じていた。漏れ聞こえてくる話し声は、どれもこれも俺の悪口ばかりだ。
どうしようもない子供。あいつのせいで死んだ。あっちが死ねばよかった。
その言葉に怒りは生まれなかった。ただ、そうだな、としか思えない。
顔を上げることなんてできなかった。ずっと葬式の間、うつむくことしかできなかった。
その日からだ。
俺が、ずっと家に引きこもるようになったのは。
事故の様子は、タンクローリーのドライブレコーダーに残っていた。だから、警察からの質問も最小限で済んだ。
誰とも話したくなかった。警察以外とは、決して口をきかなかった。話そうとすると、脳が勝手に動き出す。動いた脳は、俺が見た最悪の光景を映しつづけようとする。
家の前を救急車が通るたびに、俺は耳をふさいだ。
思い出させないでくれ、と心の中で唱える。うずくまって、ひたすらに目を閉じる。俺の逃げ道なんてどこにも残されていなかった。どうあがいても、現実は変わらない。
母のことを思い出す。
どれだけ俺がクソみたいな態度で接しようが、諦めずに声をかけてきた。俺のことを常に気遣い、俺のことを思ってくれていた。俺の話を聞こうとしてくれたのは、一度や二度じゃない。それでも話さず、勝手に不満を抱えていたのは、全部俺の責任だ。
どうして、あそこまで頑なだったのか、自分でもわからなくなった。
――今になっても、あのときの絶望感を思い出すことがある。
俺は、川の中でぶくぶくと泡を吐き出す。
不良たちに殴られて、川に突き落とされても、仕方ないことだと思えてしまう。
俺という人間は、こうなって当然なのだ。
満身創痍になり、真っ暗な世界に閉じ込められ沈んでいく。
どうやっても、もう元に戻ることなんてできない。それは、母のことだけじゃない。俺も、俺以外もみんな、失われたものを失われたものとして受け入れるしかない。
絶望感というのは恐ろしい。
俺は、もう二度と、明るく振る舞うことなんてできないと思っていた。罪悪感があるから。楽しい気持ちになんてなれないだろうから。
このまま、この気持ちを抱えたまま、死んでいくんだと思った。
……けれど、そうじゃなかった。
俺はまた、こうやって新しく生まれなおすことができている。
絶望の淵から這い上がり、新しい目的のために生きなおすことができている。
苦しみも、つらさも、完全には消えていないけれど。
それでも前に進むことができている。
俺の部屋の扉が開けられる。
光が差し込んでくる。
差し伸ばされる手を見て、俺は最終的にその手を握ることに決めた。
紗香も親父も、俺にとっては大切な人だ。
目を開く。水が入って痛くなることもかまわず目を開ける。
身体に力を入れる。
再び、血が巡っていく。意識が徐々に取り戻されていく。
俺の中で、熱いものがたぎるのを感じていた。
心臓の鼓動が聞こえる。俺は、まだこうして生きている。
川底で、俺の右手が何かに触れる。俺はそれをつかんで、顔を上げた。
腕を動かしてもがく。水面には、かすかに光がちらついている。街灯の灯りだろうか。俺はその方向に向かって懸命に泳ぐ。
徐々に光が近づいてくる。
俺は、その光に手を伸ばす。
身体が浮き上がってくる。
そうして、もう一度、水面から顔を出した。
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