5. 決意
第45話 朝食
なにもかもが壊れていく。
俺は、かつて、そんな経験をした。
失われていく。深い暗闇に引きずり込まれていく。誰もいない、空虚な空間で、押しつぶされるように沈んでいく。
世界は色あせる。墨汁が何度も擦り切れていくのと同じ。剥がれ、薄まり、空白を汚す。心がただれ、感情が枯れ、気持ちが塗りつぶされる。
俺のなかで、その経験は今なお深く傷として残っている。
膝を抱えて、部屋の中にこもっていたとき。俺はずっと、カーペットの毛先の一本一本をじっと見つめていた。なにもできなかった。失われたものの大きさに、頭が追い付かず、熱で浮かされたように瞼の奥がじんとしていた。
後悔なんて言葉では形容できない。言葉なんかでは決して表現できない。ぽっかりと空いた穴のなかで、俺は、ひたすらにあがくことしかできなかった。
誰も、俺を責めなかった。俺のせいではないと、優しい声をかけられた。そのふんわりとした思いは、しかし、俺には重くのしかかった。
いっそ、誰か俺を殺してくれ。
いっそ、誰か俺の首を絞めてくれ。
いっそ、俺を土の中に埋めてくれ。
心の中で自分を責めても、俺は自分を苦しめることができない。苦しみたくないという人間の本性が邪魔をしてくる。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
自分の気持ちを整理することなどできない。ひとつひとつを拾い集めようとするたびに雑音が入り混じる。
このまま、ずっと俺は苦しみつづけるんだろう。
いつまでも、逃れることはできないんだろう。
そう思った。
ある日、俺の部屋の扉が開いた。
そこには、妹の紗香と親父の姿。
俺を心配し、様子を見に来たらしい。
俺はぼんやりと二人を見ていた。
二人は、なにごとか俺に話しかけている。けれど、返事ができない。何を言っているのか理解ができない。はるか遠くから、声をかけられているような気がする。
(*******)
紗香が言う。
(+++++++)
親父も言う。
言葉は、俺の中で音として処理される。
音は、それでも繰り返し、耳に響いている。必死に必死に、俺に語りかけられている。
(……あ)
何か言わないと。そう思って、口を開ける。
でも、それはやはり音にしかならない。中空に消えてなくなる。
二人はあきらめなかった。親父も、紗香も、毎日のように俺の部屋を訪れ、ときに肩を抱き、ときに手を握りながら、何度も何度も語りかけた。
しだいに、音は言葉に変わっていく。
(**にぃ、らしくない)
(おまえは++++子だ。***わかっている)
ゆっくりと、ゆっくりと。
雑音が晴れていく。ぐちゃぐちゃに歪んだ世界が、秩序を取り戻していく。
俺は、ずっと探していた。
失った俺が、できること。
俺には、まだやらなければならないことがある。
そのことに、少しずつ気づいていく。
気づくと同時に、心が軽くなるのを感じていた。
世界が色を取り戻す。深い闇の底から、浮き上がっていく。
親父と紗香を見て、思う。
俺は、俺は――
* * *
目が覚める。
夢から脱する。
日曜日の朝。
まだ日が昇ったばかりのようで、鳥のさえずりが絶え間なく聞こえてくる。
閉め切られたカーテンの底から、光が漏れていた。少しだけベッドにも侵入し、俺の顔の一部を覆っている。
まばたきする。目が冴えてしまっている。もう、寝られそうになかった。
体を起こすと、足が痛むことに気づいた。昨日、無理に紗香を運んだからだろう。筋肉痛になってしまっている。
ちらりと、机の上を見ると、勉強道具が散らかったままだった。あのあとも勉強をつづけていたが、徐々に眠気に負けてしまい、ベッドに倒れこんだのだ。
目覚まし時計が指しているのは、午前7時半。親父も紗香もまだ寝ていることだろう。
俺は、足音を立てないように部屋から外に出る。そして、一階に降り、リビングルームに入った。
起きるのが遅いとはいえ、紗香は朝ごはんを食べる。ハムエッグでも作ろうと思い、キッチンに立ち、準備を始めた。
紗香は、9時くらいに起きてきた。
寝ぼけ眼で食卓に向かい、俺の作った料理を口に運ぶ。ぼけーっとテレビの朝番組を眺めながら、繰り返しあくびをしている。それから俺を見て、訊いてきた。
「あたし、いつの間に寝たんだっけ」
どうやら、俺と話したところまでは覚えているらしい。しかし、そのあとどうなったのか記憶にないという。
「おいおい。俺が寝室まで運んでやったんだろ」
「え? そうなの?」
きょとんとした顔をしている。
「大変だったんだぞ。それに、寝かせてからも俺の服の裾をつかんで『お兄ちゃん』って」
「いや、それはないわ」
まぁ、お兄ちゃんなんて呼んでいたのは、小学生のときまでだ。いつのまにか不名誉な呼び名が定着してしまった。
「でも、俺の服の裾をつかんだのはほんとだぞ」
「へー」
ジト目で見られる。信用していないようだ。
「とりあえず、あたしの部屋に勝手に入らないでよね」
自分から頼んだくせに何を言ってるんだ。しかし、そう言っても信じてもらえなさそうなので、諦めた。
紗香は、淡々と朝食を食べつづける。
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