第44話 夜

 部屋に戻ろうとしたところで、紗香が階段を下りてきた。


 一応、紗香も勉強していたらしい。珍しくメガネをかけていた。


「お、悪いな」


 横にずれる。俺のそばを通り過ぎるとき、紗香の足のことを思い出した。


「風呂入ったなら、ガーゼも外しただろ。もう一回つけてやるから、また足出してくれ」

「え~もういいよ」

「すぐ終わるから」


 今日買ったガーゼは、リビングの押し入れにしまっている。すぐに踵を返してそれらを取り出した。そして、ソファの上に座る。


「仕方ないなぁ」


 紗香は靴下を脱ぎながら隣に座る。そして、片方の足を俺の足の上に乗せた。


「早くしてよ」

「はいよ」


 改めて見ると痛そうだった。治ってもかさぶたになるだろう。


 消毒液をつけてから、ガーゼを当てる。そして、昼間と同じように医療用テープをつけ、包帯でぐるぐる巻きにした。


 もう片方も同じ作業を繰り返す。3分も経たない間に全部終わった。


「よし。あの靴はもう使うなよ」

「うん」


 ごみを捨て、ガーゼを押し入れに戻す。紗香は、手当てが終わったにもかかわらずまだソファに座っていた。どうやら疲れたらしく、背もたれによりかかって瞼を閉じていた。


「眠いのか」

「久しぶりに勉強したら頭が痛い」

「あの参考書、役に立ってるか?」


 紗香はうなずく。


「クソ兄の言う通り、悪くなかったよ。わからないところもわかってきたし」

「それならよかった」

「というか、クソ兄も使ってたんなら、そのまま渡してくれればよかったんじゃない?」

「あ」


 完全に失念していた。わざわざ買う必要はなかったな。


「まぁ、でもいろいろ書きこんじゃってるからな。新しいほうがいいだろ」

「あっそ」


 このまま放置すると寝てしまいそうだった。いつもは日をまたぐまで起きているのに、少し勉強しただけでこうなってしまうのか。


「ここで寝るなよ。風邪ひくぞ」

「もう疲れたから、運んでくれない? 階段を上る気力があたしにはない」

「おいおい」


 しかし、いくら言っても動かなさそうだ。俺は仕方なく紗香の足と背中に腕を入れた。そして、そのまま持ち上げる。


 俗にいう、お姫様だっこというやつだ。ただ、少女漫画にあるような甘ったるいものじゃない。意外と重いし、腰を悪くしそうだ。


「落とさないでよ」


 目をつむったまま、そう言われる。この状態で階段を上らなければならないと考えると非常に億劫だった。


 まあいいか。

 俺は、紗香を持って階段を上がっていく。


 やはりきつい。一歩一歩歩くたびに乳酸がたまっていく。どうにかして階段を登り切ったときには、足がほとんど持ち上がらなくなっていた。


 紗香の部屋に足を踏み入れる。


 本当に勉強していたようだ。机の上には、勉強道具が散らかっている。パソコンの電源は落ちていて、スナック菓子の袋などのごみもない。


 紗香の顔からメガネを外し、机の上に置く。そして、紗香をベッドの上に乗せ、布団をかけてやった。


 もうすでに、寝てしまったらしい。すやすやと寝息を立てている。


 まだ子供だなと思う。見た目もそうだが、中身もそうだ。高校生になったとはいえ、まだまだ甘えたい年頃なんだろう。今も、こんなに気持ちよさそうに寝ている。


 俺は立ち上がり、部屋の中を見渡す。


 ゲームが多いが、なんだかんだ女の子らしい部屋だ。カーテンもベッドもピンク色。開けっ放しのクローゼットには、可愛い服がたくさんかけられている。ヘアゴムや髪留めも種類が多く、一つのケースにまとめて置かれている。


 ラノベを読むのも好きで、小さな本棚にはたくさんのラノベが並べられている。ほとんどが、少女向けのものだ。イケメンキャラが大好きで、読むたびに興奮している。


 俺の部屋とは大違いだ。


 ――とはいえ、あんまりじろじろ見るのも悪いな。


 そう思って、立ち去ろうとしたときだった。


 俺の服の裾を、紗香がつかんでいた。


 起きているのかと思って、紗香の顔を見る。しかし、相変わらず目は閉じられたままだ。呼吸の間隔も変わっていない。


 無意識か。


 俺は、手を引きはがそうとする。そのときに、ぽつりと声が聞こえた。


「クソにぃ……無理すんな……」


 笑ってしまう。どんな夢を見てるのかわからないけど、前に言われたことと全く同じことをつぶやいている。


 そんなに俺は無理しているように見えるのだろうか。


 今日は、いろいろなことがあった。山崎の件もそうだ。山崎とつるんでいたころの俺はろくでもなかった。だから、不安になったんだろうか。


 俺はさ、紗香。


 無理なんかしていないんだ。そうしたいからそうしているだけなんだ。


 そう心のなかで返事する。でも、声には出さない。


 紗香の手から力が抜けていく。裾から手が離れ、ぶらんとベッドの下に垂れ下がる。


 俺は、腕をベッドの上に戻して、歩き出す。


 紗香はもう声をかけてこなかった。規則正しい寝息が耳に聞こえてくるだけだ。


 部屋の電気を消し、ドアを閉じる。その際、おやすみと小さな声で言った。


 後ろ手に閉め、大きく息を吐く。


 何も心配することはない。兄として、しなければならないことをするだけ。


 明日、何があっても、俺がどうなっても、お前はそのままでいてくれればいい。


 俺にとっては、それが最善だ。

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