第19話 待ち伏せ

 どうしよう。


 最初に浮かんだのがその言葉だった。


 正直、まったく心の準備などできていない。挨拶程度ならまだしも、こんなふうに話しかけられるなんて想像だにしていなかった。


「……」


 江南さんの表情に、怒りなどの負の感情はないように見えた。普通の人であれば、まず警戒することはない。しかし、江南さんだ。何をしてくるかわかったものじゃない。


 クラス中の視線が俺たちのほうに向いている。あの江南さんが、西川以外の人間に話しかけたのである。これまで決してありえないことだった。


「え、えと、なに」


 落ち着け。すべてを冷静に対応すると決めただろう。とにかく、異常事態ではあるが、無難な回答をしてやりすごそう。


「面倒くさいなぁ、その反応。ただ話しかけただけでしょ」

「ああ、そうだな」


 人に話しかけただけでこんなに動揺されてしまう、過去の自分の行動を振り返ったらどうだろうか。


「それ、お弁当?」


 誰がどう見ても弁当だ。だが、そんなことを言うと殺されそうなので、素直にうなずく。


「ふぅん、もしかして自分で作ってるの?」

「ああ、そうだぞ」

「へー」


 なんだ、この苦行。クラスメイト全員に注視されながら、なんでこんなに実のない会話をしなければならないのか。背中に汗が垂れているのを感じる。


「なんでさっきからそんなにわたしの後ろをちらちら覗いているの?」

「……この衆目環視の状況がわかっていないのか?」


 そこで、ようやく江南さんが後ろを振り向く。

 あわててみんな目をそらすがもう遅い。静まり返った教室の中で、明らかに俺らだけが浮いていた。江南さんもそんな空気は感じ取っただろう。


 だが、それでも意に介さないのが江南さんだ。そのまま話しかけてくる。


「普段も、家で料理したりしてるの?」


 助けてくれ。そんな視線を齋藤と進藤に投げかけるが、目をそらされる。初めから二人だけで弁当をつついていたかのように、小さい声で雑談を始めている。完全に逃げやがった。

 西川と藤咲を探そうとするが、ちょうど江南さんの体で隠れてしまっている。


「わたしの声、聞こえてる?」


 俺はこくこくとうなずく。


「うん。家で、料理、してるよ。うん。弁当には、よく余りものを使ってるよ、うん」

「そう……」

「江南さんは、家で料理したりするの?」


 とりあえず、質問を投げかけてみる。料理が好きだからこの話題にしたのかと思った。


 しかし、江南さんは、こう訊き返してきた。


「……どっちのほうがいいと思う?」

「へ?」


 何を言っているのか、まったくわからない。


「料理できるのとできないの、どっちのほうがいいと思う?」


 江南さんの顔は極めて真面目だった。ふざけているわけではないらしい。


「そりゃ、できるほうがいいんじゃないかと……」

「ふぅん」


 怖い、怖すぎる。何を考えているのか全く読めない。ひとまず、江南さんを怒らせるようなことを言わないように気を付けなければ。


「その、先週は、すまん。変なこと言ってしまって……」


 謝っておく。ひとまず、不安の芽はつんでしまいたい。


「……気にしてないから大丈夫」


 気にしていないんなら、なんで今日に限って真面目に授業を受けてるんですかね。それに、俺に話しかけるのもおかしくないですかね。もちろん、そんなことも言えるわけがないが。


「それなら、よかった。結果的に勉強の邪魔しちゃってごめんね」

「……あんた、勉強得意なんだっけ?」

「え、うん。一応」

「ふぅん」


 さっきから、俺のことを根ほり葉ほり聞こうとしているようだ。得た情報をもとに俺を殺しにかかるつもりなんだろうか。


「……部活とかしてるの?」

「ああ、うん。科学部ってところに入っている」


 なので、できる限り情報を隠そうと思ったが、江南さんの目を見ていると、とてもじゃないが隠し事なんてできそうになかった。それだけ、圧がすごいのだ。


「今日も部活?」

「まあ、そうだね。テスト近いから早めに帰るけど」

「そ」


 だからといって、ここまで正直に言う必要はないんじゃないか。自分でもそう思うが、嘘をつくことなんてできそうになかった。

 江南さんの意図を完全に把握しようなんて考えはとうに捨てていた。嵐が過ぎ去るのを待つしかない。


「……あとでね」


 そう言って、江南さんは俺のもとから立ち去る。そのまま教室から出て行くのを見て、俺は体から力を抜いた。


 教室に漂っていた緊張感も弛緩する。クラスメイトたちはまた雑談を始めている。西川と藤咲は、俺を見ながら首をかしげていた。


「なぁ、おまえ、何をやらかしたんだ」


 そう訊いてきたのは齋藤だ。一応、心配してくれているらしい。


「……もう俺にはよくわからん」

「俺は怖すぎて一度も目を合わせられなかったけど、よくまともに会話できたな」

「……まぁな」


 ひとまず、乗り越えられた。今の会話で大きな失敗はなかったはずだ。


 もう考えるな。考えすぎると頭がおかしくなりそうだ。基本的に西川に任せておいて、俺は嵐が来るたびに適当にやりすごしていればいい。


 しかし、その考えが甘かったことを、すぐに思い知らされることになる。





 放課後、部活も終わり、俺と齋藤と進藤はそろって校門のほうまで向かっていた。


 早めに切り上げたため、まだ時間は午後五時だ。いつもよりも周囲が明るく、運動部の掛け声が遠くから聞こえてきていた。


「結局、今日一日、あの不良は極めて真面目に授業を受けていたな」


 齋藤が、思い出したように言った。確かに、午後の授業も午前と同じように静かに授業を聞いているようだった。


「……明日も同じ感じだとすると気味が悪くてしょうがない」


 そんなことを言いながら歩いていたからだろうか。噂をすると影。正門のそばに、見えてはいけない人の姿が見えた。


 俺たちは、そろってその場に立ち尽くす。


 緩やかに風が吹いている。秋らしい、涼しく乾いた風だ。


 赤茶けたレンガの柱の間に、黒い金属製の門扉が設置されている。解放されたままの門扉の脇に、一人の女子生徒の姿が見えた。


 茶色の髪が風に揺られている。こうして遠くから眺めていると、ただそこにいてスマホをいじっているだけなのに、とても美しい光景のように思える。


 江南さんが、いる。


 ごくりとつばを飲み込む。もしかして、俺を待っていたのではないか。そんなあり得ない考えが、俺の脳裏をよぎった。


(……あとでね)


 昼休みのときの江南さんの言葉がよみがえる。


 混乱していた。


 考えまいとしても、眼前の光景が、俺の脳裏をかき乱していく。


 俺にはわからない。


 なにがなんだかわからない。


 逃げようとか、隠れようとか、どうしようもない考えばかりが浮かんでくる。


 江南さんのことがわからない。


 なにがしたいのかがわからない。


 俺にはもう、どうすればいいのかまったくわからない。


「……」


 しばらくそこに立ち尽くしていると、やがて江南さんは俺たちの存在に気づいた。


 顔を上げ、目を大きく見開く。


 そして、言う。


「来た」


 待ち伏せしていた江南さんは、少しだけ微笑んだように見えた。


――――――――――――

ようやくタイトル回収です。お待たせしました。

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