第17話 困惑

 朝のSHRのとき、城山先生も「異変」に気が付いた。出席をとるとき、いつもは来ていないことを目で確認するだけだったが、その席に座っている江南さんを見て、彼女の名前を声に出した。


「江南」


 その瞬間、クラス全員の視線が江南さんのほうへと向く。しかし、そんな視線を一手に受けてなお、平然とした様子だった。


「はい」


 この何気ない普通の返答に、思わず感嘆の声を漏らしそうになった。城山先生まで、数秒程度固まっていた。

 まともに言葉を交わしている姿を久しぶりに見た気がする。無視されるか、冷たくあしらわれるかのどっちかだった。これはただごとではないと、クラス中が感じていた。




 そして、二時限目。数学――城山先生の授業。


 いつも通り、淡々と授業が進行していく。新しい単元に入ったので、丁寧にその理論が解説される。やがて、例題の説明が終わり、練習問題を解くという段階になって、城山先生の手がぴたりと止まる。


 黒板には、練習問題1とだけ記載されている。小気味よく鳴っていたチョークの音もやむ。先生は、チョークを持ったまま後ろを振り返る。先生の視線の先に、江南さんがいることがなんとなくわかった。


 そして、突然言った。


「江南」


 教室中が緊張感に包まれる。俺も固唾をのむ。


「この練習問題、前に来て解いてみろ」


 先生が江南さんを指名することはほとんどない。どうせ、ろくなことにならないとわかっているからだ。先生は今日の江南さんに可能性を感じたのだろう。


 おそるおそる、江南さんのほうを見る。江南さんは、頬杖をついてぼんやりと前を眺めていた。そして、自分が指されたことに気づき、目を丸くし、顔を手から離す。自分に人差し指を向け、戸惑うような表情になる。


「そうだ。お前だ。正解できなくても構わない。自分なりに考えて、こうじゃないかいう答えを書いてみろ。多少のアドバイスはしてやる」


 普段の江南さんであれば、こんな指示に従うことはない。「は?」とか「なんで?」とか口答えし、最終的に怒られるのがオチだ。こころなしか、先生も怯えているように見える。


 が、やはり今日の江南さんは一味違っていた。


 教科書をもって、静かに立ち上がる。ゆったりとした足取りで前へと歩く。俺の横を通りすぎ、教壇のうえへと上がる。


「……」


 江南さんは無言だ。ただ、先生をじっと見ている。また、先生を怒らせるようなことを言うんじゃないかと思った。


「チョーク」


 手を前に出す。そこで、はっとなった先生がチョークを江南さんに渡す。

 先生が端のほうにずれると、江南さんは黒板のまえでチョークを構える。教科書の練習問題をちらちらと見ながら、ゆっくりと数式を書いていく。


 新しい単元に入ったばかりなので、そんなに難しい問題ではない。俺が解いたのであれば、ものの30秒で答えられるような問題だ。しかし、江南さんにとっては難しいらしく、ところどころつまっていた。


「ここはだな……」


 そして、そのたびに先生がアドバイスをさしはさむ。それに対して、特にむっとすることもなく素直にうなずいて、解答へと反映させていく。


 5分くらい経ったころだろうか。江南さんが正解にたどり着いた。


「よし、戻っていいぞ」


 これは、夢かなにかだろうか。江南さんが、先生の言うことをちゃんと聞いて、さらに数学の問題をしっかり解いた。


 教壇から下り、自分の席に戻る途中、江南さんが、俺の席の横で少し立ち止まる。そして、俺の顔を見て、小さく笑う。


 ――え?

 別に、何か話しかけてきたわけではない。ただ、にこっとした笑みではなく、どうだ、やってやったぞと言わんばかりの得意げな笑みを浮かべていた。


 俺は、反応に困り、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。


 すぐに江南さんはいつもの無表情に戻って、通りすぎて行った。


 凍りつきそうになる思考を懸命に駆け巡らせ、今の状況を把握しようと努力する。それでも、何が起こっているのかさっぱりつかめなかった。やはり、朝のアレは、俺に対しての挨拶だったのだろうか。いったいなぜ?


 先生は、すぐに授業を再開した。


「じゃあ、次の練習問題だが、大楠解いてくれ」


 練習問題2という文字がいつのまにか黒板に書かれていた。俺は、あわてて立ち上がる。


 先生からチョークを受け取ったところで、小声で言われた。


「おまえたちが、説得してくれたのか? ありがとな」


 どうやら、先生は俺たちのおかげだと思っているらしい。だが、俺にもなんで江南さんが急に真面目になっているのか全く分からない。苦笑いを返しておいた。


 ぱぱっと問題を解き、自分の席に戻ろうとして、江南さんが俺を見ていることに気がついた。ふーん、やるじゃないという表情。


 ふーっと息を吐く。落ち着け。なんで江南さんがこのような意味深な行動をしているのかはわからない。だが、これは罠だ。俺が先週した行動は、江南さんを怒らせたに違いない。だから、最終的に俺にとってマイナスな結果となるはずだ。


 とにかくいつも通りにしていよう。俺を惑わすためにいろいろしてくるかもしれないが、そのすべてに対して冷静に対応しよう。


 そう思った。

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