第16話 異変
異変は、唐突に訪れた。
翌週。
俺は憂鬱な気分だった。
先週、逃げるように家に帰ってしまった。非常に無責任な行動だったと思う。醜い姿をさらした挙句、場を散らかしたまま立ち去ってしまったのだ。あのあと、西川にも藤咲にも呆れられたことだろう。二人からしたら、訳が分からなかったに違いない。
西川に対しては――協力してもらったのにそれを無碍にしてしまったという申し訳なさ。
藤咲に対しては――二人で協力すると約束したのにそれを破ってしまった罪悪感。
どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。メッセージアプリには、二人からメッセージが届いていたようだったが、怖くて見られていない。休みの間、ずっとどうしようか思い悩んでいた。
教室のドアの前にたどりつき、俺は深呼吸をする。
落ちつけ。もしかしたら、二人とも大して気にしていないかもしれない。
そして、引き戸に手をかけ、一気に扉を開けた。
いつも通りの光景。すでに半分くらいの生徒が登校していて、雑談がところどころから聞こえてくる。朝の陽ざしが、レースカーテン越しに差し込んでいた。
いつも通りだ。いつもと変わらないはずだ。でも、俺は思った。
何かがおかしい。
別に、変な音がしたとか、奇妙な物体が見えたというわけではない。ただ、入り口の前に立ち、いつものように足を踏み入れようとしたところで、天から降ってきたみたいに違和感が音もなく俺の脳裏に舞い降りた。
確かに、俺はいつもより緊張している。先週、失敗してしまったから、見せるべきではない醜い姿をクラスメイトに晒してしまったから、そのことを気にしている。
だけどそれだけじゃない。もっと決定的に何かが違う。
俺は、教室の中を見渡し……やがて気づいた。
いつも俺が座っている、窓際の一番前の席。そこから後ろに辿っていくと、普段は空席のはずの椅子の上に、ひとりの女子生徒が座っているのがわかった。
江南梨沙。
遅刻の常連。クラス一の美人。誰も相手にしない冷徹な女。
その彼女が、始業前の教室に悠然と腰を下ろしている。
朝日に照らされ、まぶしそうに目を細めながらも、窓の外を見て、ほおづえをついて、つまらなそうにそこに存在している。
違和感の正体は、間違いなくこれだった。
――え? なんで?
おかしい。2学期に入ってから、一度も時間通りに登校したことはないはずだ。さっきまで思い悩んでいたことも忘れて、俺は口をぽかんと開けてしまった。
クラスメイトも、雑談しながら、ちらちらと江南さんのことを気にしている。朝の教室に江南さんがいるという強烈な違和感。本来であれば、普通のことのはずなのに、とんでもないことが起こったように感じる。
しばらく、立ち尽くしていたら、ぽんぽんと肩を叩かれる。
「大楠。なにぼさっとしてるんだ」
振り返ると、進藤がいた。俺は、まばたきを繰り返しながら言う。
「なぁ、窓際の一番後ろの席には何が見える」
「ん?」
進藤もまた、江南さんのほうへと視線を向ける。そして、え? と戸惑うような声を出した。
「珍しい……。あの不良が時間内に来ているじゃないか」
「そうだよな。おまえにもそう見えるよな」
どうやら、俺の見間違いではないらしい。
「何日ぶりなんだろうな。そういえば、最近、全然時間通りに来ていない気がする」
最近どころではないのだが、言わないでおく。
「まあ、でも俺たちには関係のないことだ。あの不良に関わってもいいことはないぞ」
「あ、ああ」
俺たちは、極力江南さんを見ないようにしてそれぞれ自分の席に着く。西川と藤咲はまだ登校していないようだった。
自分の席に着いても、俺は江南さんのことが気になっていた。先週、啖呵を切ったばかりの相手だ。どうせ遅刻してくると思っていたから、教室に入るときに意識していなかった。
不意打ちだ。
俺は、鞄から勉強道具を取り出す。自習しようとペンを手に取るが、後ろから伝わる謎のプレッシャーに意識を奪われる。席に着いたことで、江南さんは俺の存在に気が付いたはずだ。きっと怒っているだろう。そして、今、背中から感じる波動は、江南さんからの怒りの視線に違いない。
極力、江南さんを意識しないように、懸命に問題集に目を通す。本来であればするする頭に入ってくるはずなのに目が滑る。簡単な積分の問題が、途方もなく遠くにあるように見える。
それでも必死にペンを動かしていたら、急に俺の横に人の気配を感じた。なんだろう。そう思って顔を上げたとき、俺は驚きのあまり声を失った。
なぜかそこに江南さんが立っていた。そして、俺を見下ろしながら言う。
「おはよう」
無表情だった。そして、俺をじっと見つめていた。
「え?」
あれ? 今、もしかして、俺にあいさつした? あの江南さんだぞ。なんで?
しかし、感情が読めない。俺は仕方なく返す。
「お、はよう?」
その言葉を聞いて、江南さんはまた自分の席へと戻っていく。振り返った態勢のまま進藤と目を合わせる。進藤も驚いたらしく、口をすぼめて首をかしげていた。
おそらく気まぐれだろう。そう思わないと、怖くて耐えられそうになかった。
――しかし、これは序章に過ぎなかった。
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