幕間 妹
家に帰ると、珍しく妹がリビングにいた。
「おかえり」
正直、紗香と話そうという気分じゃなかった。やってしまったという絶望感が尾を引いている。すでに時刻は5時を過ぎていた。
「はぁ……」
あのあと、街をあてもなくぶらついていた。別に、目的地があったわけではない。すぐに帰ると今日の失敗が脳裏によみがえってくるのが目に見えていた。
俺は、紗香から麦茶をもらい、一口飲む。
「ありがとな」
そのまま立ち去ろうとすると、紗香が声をかけてきた。
「え? クソ兄、大丈夫? なんでそんなに元気ないの?」
俺は立ち止まって、顔だけ後ろに向ける。
「そんなことないぞ。いつも通りだ」
しかし、紗香は、は? と言って、怪訝そうな顔をする。
「いつも通りだったら、顔を合わすなり、すぐに説教を始めるじゃん。ゲームばっかりしてるんじゃないとか、勉強しろとか、玄関の靴をそろえろとか」
「あぁ……まぁそうだな。ちゃんと勉強しろよ。あと靴もそろえておけよ」
「とってつけたようだなぁ」
実際、とってつけたのだからしょうがない。今になって思うと、この説教癖がいけなかったのだろうか。紗香を見ると、そのだらしなさに我慢ならずに文句を言ってきたが、そのせいで江南さんにもつい説教をかましてしまったのだろうか。
「あと、部屋の中はきちんと片付けておけよ。どうせ、またお菓子食べてそのままなんだろう。ちゃんと自分でごみを捨てるんだぞ」
「……いつもだったら、問答無用で部屋の掃除を始めるよね」
「……たまには自分でやったらどうだ」
「これは重傷だね」
紗香はコップを傾けて、麦茶を飲む。が、その際にこぼれて服にかかってしまう。着ているパーカーの胸元が濡れる。
「あぁ、もう何やってるんだ」
こいつは、いつまで経っても子供だな。仕方なく体ごと振り返って、ポケットに入っていたハンカチを渡す。
「さんきゅ」
しかし、ハンカチで濡れたところを拭いている紗香を見て、再度呆れてしまう。
「よく見たら、口元に食べかすがついたままだぞ。いや、そっちじゃなくて……こっち……ああ、もうそれ貸せ」
ハンカチをひったくり、口の端からそれをぬぐってやる。
「んー?」
「なんだ?」
紗香は口を拭かれながら、疑わし気な目を俺に向けている。ハンカチを折りたたんでいると、紗香は言った。
「やっぱり、なーんかおかしいよね。あたしにはわかるよ。さては、フラれでもした?」
「そんなことない。特におかしいことなんかないぞ」
「ふーん」
しかし、それきり追及はしてこなかった。これ以上聞いても無駄だと思ったのだろう。
「とにかく、これ以上は間食しないこと。すぐにご飯作るから、ゲームはほどほどにして、勉強しろよ」
「……はいはい」
そして、俺はいったん自分の部屋に戻る。制服から着替えたあと、リビングに再度足を踏み入れる。と、なぜか紗香がリビングに残っていた。
「どうした?」
「ん、いや別に」
紗香はソファのうえに寝転がって、普段は見もしないテレビを眺めていた。しかも、番組がニュースである。紗香らしからぬチョイスだ。
「クソ兄さぁ」
エプロンをつけ、台所に立った俺に対して、声をかけてくる。
「ちょっと疲れてるんじゃない?」
まな板を洗おうと、シンクに立てかけたところでぴたりと止まる。
「疲れてる?」
「そう。無理しすぎなんじゃない?」
「……無理なんかしてないぞ」
「そ」
それだけ言って、テレビを消す。そして、紗香が立ち上がって俺のほうを見る。
「なんだよ」
「なんでもないよ。ただ、無理しすぎると、戦場じゃ寝込みを襲われて殺されるよ」
「いや、ここ戦場じゃないから」
スポンジでまな板をこする。泡を水道水で洗い流していく。
「まあ、じゃあ、あたしは部屋に戻るから。ご飯になったら呼んで」
「ああ」
そして、紗香はリビングから出て行った。
……どうやら、気を使わせてしまったようだ。洗った後のまな板を調理スペースに置いて、ひとつため息をつく。
俺は、無理なんかしていない。その言葉に嘘はない。
むしろ、自分にとって最も楽な道しか選んでいない。あの日から、俺のすべては崩れてしまった。その日常を守るために、自分を守るために、こうするしか道は存在していなかった。
ぱちん、と自分の顔を叩く。いつまでも落ち込んだままではいられない。
――さて、今日のごはんは何にしよう。
思考を切り替えて、俺は冷蔵庫の扉を開けるのだった。
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