水中花-すいちゅうか-

 偲は目が覚めると玄関へと向かった。前日の雨は夜中になり落ち着き外からは残った雨粒を払う雫の音のみとなっている。湿気で重い空気の中、響く鳥の声を浴びる早朝。それだけならよかった。

「何だ……これ」

 前日から嫌な予感はしていた。霖露雨が紫陽花の束を寄越してきたから。有難く頂戴するにも、家の花瓶が足りず、仕方無しに防火バケツにまで差すことになった。無論、家の中に入れる為のものではないので、紫陽花も野晒しにしてしまった。元来紫陽花は雨風に晒されて育つのだから、と言い聞かせてしまったからなのかもしれない。

 東雲家には玄関を少し歩いた先に小川があり、それを跨ぐ橋が掛けられている。人が跨ぐには幅は広く、掘と云うには狭い。前日の雨の影響で床すれすれまで上がった水面、その川幅一杯に紫陽花が犇めき合っていた。眺めるに、祭の出店に入れ替わり立ち代わる客にも、百鬼夜行そのものにも見えた。青と薄紅と紫と、まだ蕾の固い緑が埋め尽くすそれは、橋を渡ろうとする偲を躊躇わせた。あと少しで浸水するような橋に足を乗せるのも、水は流れど留まり続ける紫陽花の中を歩くのも不安だった。

「何でこんなことになったのか」

 分かっていれば対処するものの、分からないので途方に暮れる他ない。ぼんやりと、こういうのも花筏と云うのだろうか?と考える。橋が遮る上流ならともかく、暫くは段差もない下流も橋にしがみつくように動く様子を見せないその花を見て一緒にしてはならないと思い直した。

「新聞、取ってこい」

「あの間を通り抜けろって?」

 渋い顔をして稿介を見ても、偲に返されるのは橋の先へ行けという視線だけだった。正直、何とかしなければ一歩も身動きが取れない。家の立地上、突き当たりになるので何としてもこの橋は越えなければならない。のだが、早々に諦めなければならなさそうだ。細い、小さな腕が幾重にも橋の両端から伸びる。茶色く萎れたそれは、風になびきゆら、ゆらと手招きするように見えた。

「私は嫌だよ、稿介が行けばいいじゃない」

 諦めて家へと振り返ろうとするも、上腕を掴まれ橋へ向き直された。

「お前の家だろ。家主なら何とかしろよ」

 無茶を仰る。何とかして自分が行かなくてもいいように、と思案するも良案は出なかった。

「必要?新聞。そんなに読みたい記事があるの?」

 苦し紛れに云ってみたが、読みたい記事の為にあるのではなく、記事を読むために新聞はあるのだから必要に決まっている。このままだと無理矢理背中を押され、橋に突き飛ばされる未来しか見えない。誰でもいい、何とかしてくれ。と思っていると、竹林の奥から声がかかった。

「偲、稿介、おはよう。朝早いね」

 赤いレインコートを翻し、ゴム靴で水溜まりを濁しながら対岸の橋の先までやってきた。その後ろを付き添う和装の男も姿を現した。

「おはよう霖露。霖露雨、これ何とかして」

 湿気で普段よりも強く重そうな巻き髪を揺らしながら、昨日と同じく紫陽花を抱えて霖露雨はやってきた。

「おはよう。凄いね、とても好かれてるみたいだ」

 埋め尽くされた紫陽花を一頻り眺めると、望んでもいない事態になっていることを知らせてきた。偲の懸念を他所に、木造の橋を軽快に渡る霖露とそれについて歩く霖露雨が目の前に着いた。凝った花達は先程広げていた手をすっかりすぼめており、見るにお利口にしているようだった。

「あの、立ち退くように言ってもらえないかな。私は新聞取りに行かないとだから」

 すると、霖露は満面の笑みで新聞を差し出した。

「はい。これだよね、どうぞ」

「うん……ありがとう」

 受け取りつつ後ろの稿介に回すと、満足したのか屋内へと入っていった。

「で、何でこんなことに」

 わさりわさりと擦れ合う音が大きくなってゆく。

「昨日の紫陽花、どうした」

 霖露雨が玄関先を見ながら尋ねてくる。

「花瓶に挿して、それでも溢れて。花瓶もないからバケツに入れた。駄目だっ……たから今があるのか」

 説明をしながら自分の行動が悪い様な気がしてきた。

「そうだね。少なくとも、葉を落とさなかったのが気に入ったみたい」

 たかだかそんなで、そう思っていても何が琴線に触れるかはそれぞれだ。

「よかったね。葉をむしって茎も切り落として……なんてしてたら、君は今頃五体バラバラだったよ」

 持ってきた紫陽花をバケツに挿しながら、何てことないように恐ろしい事実を話した。

「僕が剪定したから、足がなくなることはないよ」

 加えてそんなことを言ったが、問題は以前として川にあり続けている。

「流しちゃう?」

 軽い調子で霖露は庭先の蛙を捕まえながら言った。反対の手には井守も掴んでいる。

「それで全部終わるなら」

 一刻も早く終わらせて眠り直したい。変な予感のせいで目が覚めてしまったので睡眠が足りていない。

「霖露雨ちゃんに任せるね」

 そう言うと、霖露も家の中へ入った。

「偲」

 バケツの前に座る霖露雨はゆっくりと立ち上がった。その腕には一枝だけ、大切に抱えている。

「君は」

 その姿に違和感を覚えると同時に、足が動かなくなった。

「あれが何に見えるかな」

 首の座らない赤子の抱き方だ。

 後ろで犇めく葉擦れの音が水の音で流された。

「はい、終わったよ」

 そう言われ、後ろを振り向こうとすると自然と足は動いた。体ごと川へ向けると橋には何の残滓もなく、川も先程よりも水位が下がっていた。

「……終わった」

 言葉尻を繰り返す。その言葉に偽りないようで、纏わりつく湿気さえも流れていってしまった。

「はい。どうぞ」

 大層大事に抱えていた最後の紫陽花を偲へ渡した。慈しむ目は霖露雨の手から離れると消え失せた。そして、何事もなかったように霖露雨も家屋へと入り、家主の偲と一房の紫陽花だけが置き去りにされていた。










「稿介、何か気になる記事あった?」

 冷めない内にと用意された卵焼きを頬張りながら、偲はもう朝食を終え新聞に更ける幼馴染みへ声をかけた。

「最近、手水舎に紫陽花を浸ける『花手水』が流行ってるんだと」

 紙面には鮮やかな印刷の写真が載り、参拝客と思われる人は喜んだ表情を浮かべている。

「で、手水舎の水を飲んだ子供が嘔吐で救急搬送されてる」

 沢庵に箸を伸ばした手が止まる。稿介を見るが、新聞から目を離さない。

「あと、妊婦も搬送されてるみたいだ」

 先程まで美味しかったはずなのに、急に酸っぱくなったような、苦くなったような気がして食欲が萎え始めた。

「そういえば」

 読んでいた新聞を畳み、机に置くと花瓶を眺めた。

「何で減らしたんだ、紫陽花」

 硝子の投げ入れは昨日まで三つ四つ飾られていた。けれど、今は一つだけ。今にも消えてしまいそうな小さな青色。

「他は玄関に移した。井戸から汲んだ水に浸けたから、暫くは持つでしょう」

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