第6節 悲劇の終演
悪態を吐きながら、榊がペーパーナイフを振るっている。まともな攻撃とは言えない、自棄を起こして振り回しているだけの斬撃。そんなものは、同じ術を使う柾の脅威にはなり得ない。
片手に一本ずつ握った、分離された鋏。それで兄の攻撃を切り裂きながら、柾は自身の家族のことを振り返る。
数刻前に藍に語ったように、霧沢家は異国の魔術師の名家から分かれた家だ。開国後、西洋文化と共に輸入された西洋魔術が広まるようになると、そんな霧沢のルーツも自然周囲に知られることになる。
まあ、人間とは醜いもので、他人を下に見たがる傾向にある。それは魔術師となっても同じ――否、普通の人間に扱えない力を持つからこそ、自らを特別視したくなり、隙あらば他の人間を貶めようとする。
不幸なことに、霧沢には〝隙〟があった。本当は正当に継承し得たはずの高祖母に〈アトロポスの鋏〉が継承されなかった、という隙が。
当人にはこれといって都合の悪いものでもなかったが、周囲はこれ幸いと槍玉に挙げた。
それでも当事者や、その当事者をよく知る家族は、恥じることなど何もないと気にも留めなかったようだが、高祖母をよく知らない世代になると、そういう訳にもいかなかった。自らに関わりのない理由で貶められるのだ。理不尽に思えて仕方がない。
だから、柾は周囲を切り捨て、関心を持たないようになった。煩わしいことが嫌いな柾には、それが一番楽な方法だったから。自分を全肯定してくれる詩凪の存在もあったから、誰かに認めてもらいたい欲求もなくなっていた。
だが、榊はそうではなかった。真面目で責任感の塊だった兄は、長男で、跡継ぎでもあった所為か、他人の批判を流しきれなかった。それどころか、汚名を返上しなければいけないとまで思い詰めていたようだ。
その重圧が兄を歪めたのだと、柾は思っている。尊大で不遜なのもその所為だとも。自らを誇張し虚勢を張らなければ、心ない人間の悪意に立ち向かえなかったのかもしれない。
人でなしなのに変わりはないし、今さら許すべくはずもないが。
哀れんでやらないこともないかもしれない、とも思う。
――まあ、気が向いたらだけど。
因みに、今は気が向かない。
「なんで――っ!」
柾が悉く攻撃を捌くのが苛立たしくて仕方ないのか、榊はペーパーナイフを大きく振り下ろすと、地団駄を踏んで吼えた。
「何故、どうして、邪魔をする! お前は俺の弟だろう!」
駄々をこねた子どものように癇癪を起こす兄を、柾は鋏を下ろし、醒めた目で見つめた。この期に及んで、親殺しが何をわめき散らすのか。
「俺は霧沢のために、やっているんだぞ! なのに、なんで同じ霧沢のお前が俺を否定する!」
「霧沢のため……?」
兄の言葉を繰り返し、柾は嘲笑った。
「笑わせないでよ。全部自分のためでしょう。自分が認められたくて、やったんだ。それをなんで僕が手伝ってやらなきゃいけないの。――だいたい、親殺しを大義のように言うなよ。自分の欲望を誤魔化すんじゃない、卑怯者」
いっそふてぶてしく開き直るくらいのことをして見せれば、まだ見処はあったかもしれないが。こうなってしまえば、ただの小物でしかない。
決してそれだけが理由ではないが、柾にはそういう兄がすごく腹立たしかった。
「……うるさい! うるさいっ!!」
再びペーパーナイフが振るわれる。飛ばされる斬撃。かまいたちのごとく、目に見えない攻撃であっても、種を知っている柾には見極めることなど容易い。だいたい、ペーパーナイフの軌道を見れば、どのあたりに来るかはおおよそ判る。そこにこちらの斬撃をぶつけてやれば、相殺など簡単にできる。
もはや喚き散らすだけの兄を見て、これはもう駄目だな、と柾は思った。大の大人が、思い通りにいかなかっただけで、この体たらく。ひどく無様だ。見苦しい。
「呆れてものも言えないよ、兄さん」
あまりに幻滅してしまう姿に、ふん、と失笑とも言えない溜め息が漏れる。もはや兄弟とも思えなかった。
「くそぅ!」
叩きつけるように乱暴に振り下ろされる、榊のペーパーナイフ。感情任せ、力任せの一撃は、柾の眼にはあまりに拙い。綻びばかりが目について、腸が煮えくり返りそうだった。
「だから、粗いって言ってるだろう!?」
右手で榊の斬撃を打ち消し、左の鋏を振りぬいた。鋭い一撃が榊の肩に飛来する。
肩口からぱっと赤いものが弾けた。
「いい加減煩わしいよ、この恥さらし」
膝をつき、肩を押さえて悶える榊を、柾は冷ややかに見下ろした。
「ここで殺してもいいんだけど――」
すぅ、と目を細め、兄に鋏を突き付ける。痛みに呻きながらもぎりぎりと憎しみを込めて睨み付けてくる榊の根性に感心する一方で、やはり煩わしく思えてしかたがない。
「でも、約束があるからね」
詩凪が止めろというからには、柾はその要求に少なくとも耳を貸すくらいのことはしなければいけない。詩凪が柾を満足させる提案をするなら良し。なくても、処理を遅らせれば良いだけで、さほど状況に変わりはない。
魔女の悲鳴が聴こえる。柾は口角を上げた。凌時たちもうまくやっているようだ。
あとは詩凪を待つだけ。
「さあ、観念しなよ」
そう言って柾は兄をせせら笑った。
せいぜい自分の欲望が打ち砕かれるそのさまを、その目でしかと見るがいい。
□ □ □
詩凪たちの憩いの談話室に慟哭が響く。魔女の悲鳴と、榊の悲鳴と。
凌時とキキに引き付けられた魔女の身体にはあらゆる場所に剣が突き刺さっていて、魔女は痛みに悶えているらしい。〈異録〉の産物だからか、それともそういう生き物だったのか、不思議なことに――そして幸いなことに、異形から血は流れていない。身を捩らせて、触手をばたばたと叩きつけ、ただもがく姿がそこにある。
一方、柾に肩を斬られた榊は、多量の血を流していた。腕を落とされることはなかったようだが、かなり深く斬られているようだ。無事な手で肩を抑え、膝をついた男は脂汗を流している。今すぐどうにかしなければ、命に関わるかもしれない。
――これが、〈異録〉が招いた悲劇。
詩凪はぎゅっと目蓋を閉じる。魔の力を宿しているとはいえ、ただの一冊の本であるはず。だが〈異録〉は、詩凪の両親の命を奪い、一つの家族を壊した。人ひとりを惑わせるだけの力を秘めていた。
それが、どれほど危険なものか。穂稀は再認識しなければならないかもしれない。
「……詩凪さま」
背後から囁くようなフランセットの声がする。詩凪は目を開けた。柾や凌時たちが、〝敵〟を引き付けてくれたお陰で、詩凪はこうして無事にページが散らばった箇所に辿り着くことができた。〝敵〟の脅威は程遠く、妨害される危険性は下がっている。
あとは、この床にばらまかれた紙葉を纏めあげるだけ。
詩凪は両手を胸の前に出した。足下からふわり、と風が吹く。羽のように静かにページたちが舞い上がり、はたはたと詩凪の周囲を飛び回った。
やがて、ページたちは詩凪の掌の上に収束していく。自ずから順番を整えて、一つの紙束となっていく。
風が収まると、詩凪は片方の手で束を掴み、もう片方の手をポケットに突っ込んだ。取り出したのは、凌時が隠し持っていた一枚。柾が乗り込んでくる寸前、彼から受け取っていた。
ポケットにいるときからずっと暴れていた最後の一枚は、詩凪の指先から逃れると、紙束へと飛んでいく。詩凪が束を持つ手を緩めてやると、自分のいるべき場所を見つけ出し、潜っていった。
ポケットからクリップを取り出し、二ヶ所で止める。
そして、左手で本を持つと、前に突き出して開いた。第七章、第三節。まさに今、この場所に顕現している魔女について書かれたページ。
「〝閉じよ。今ここで〟」
空いた右手を前方に伸ばし、掌を翳すように魔女に向かって突き付けた。
「切り離された街の悲劇の記録。〝これをもって、終演を〟」
詩凪の手の先で、魔女の身体が淡く光る。その異形の身体は、まるで泡になった人魚姫のように、無数の光の球に転じて弾けた。
散らばった光球は、渦を巻いて〈異録〉のページに吸い込まれていく。
全ての光の球が吸い込まれると、漏れ出すことがないように、詩凪は本をそっと閉じた。
中空に残されたノエの剣が、音を立てて床の上に落ちる。
「そんな……馬鹿な……こんなにあっけなく」
肩を押さえた榊が目を見開き、呆然と呟いた。ほとんど自立で動くに任せていたわりに、自分が喚び出した招魔の消失は衝撃的だったようだ。今だけは、肩の痛みを忘れているように見える。
フランセットが榊に駆け寄った。傷口の状態を見て、杖を振る。そういった治療術の心得があるようだ。
「これがあれば、強い力が手に入ると……」
だが、治療されている本人は、魔女のいた方ばかりを見つめ、治療されている肩にも構うことがなかった。ただ、何故、ばかりを繰り返している。
「〈異録〉は記録です。使うものではないんです」
魔の力を宿していようとも、〈ルルー異録〉は魔術を使うように記載されてはいなかった。魔術を使うのを目的とした魔書ならば、凌時の持つ本のように教本の形式で書かれるのが普通だ。
しかし〈異録〉はあくまで物語だった。ルルーの町で使われた魔術の使い方を記したものではない。あくまで出来事を語った書物に過ぎなかった。
「何故筆者がこれを他人に託したか。どうして町が切り離されるのを受け入れたのか。私たちは、そこのところを忘れてはいけないんだと思います」
しかし、どれほど詩凪が語り掛けても、フランセットの治療同様、榊は反応しなかった。まさに茫然自失の体。失ったものを数えて、虚空を見つめるばかりである。
予想以上の腑抜けぶりに、柾が頭を振った。
「ノエ、フランセット。兄さんを家に連れていって」
フランセットもノエも、無言で頷いて、肩を担いで榊を部屋から引っ張り出した。二人がかりとはいえ、女性と小柄な少年が長身の男を連れていくのは困難だ。非戦闘員であったためずっと隅で控えていた間宮が手を貸した。
「……良かったのか?」
三人が談話室を出たところで、凌時は柾に問い掛けた。さっきまで殺してやると息巻いていたのに、詩凪の求めがあったとはいえ、あっさり断念したのが気になったらしい。
「よくよく考えると、家督とか譲ってもらうのに兄さんのサインがあったほうが手続き楽なんだよね。早まらなくて良かったよ」
それから、ありがとう詩凪、と微笑むが、詩凪の心境は複雑だった。そういうことではないのに。
だけど、なんであれ踏みとどまってくれたのだから、そこは喜ぶべきだろうか。
「ああ、そーかよ」
やれやれ、と凌時が肩を竦める。どかり、と敗れたソファーの端っこに座り込み、背を大きく反らしてもたれかかった。気の抜けた表情。目がとろんとしている。相当疲れているようだ。
こんなところで寝ちゃ駄目だよ、と柾が凌時の頭を小突いている。
「……終わったわね」
詩凪の隣にキキが並び立つ。横から詩凪が持つ〈異録〉を覗き込み、感慨深く言った。
「うん。後は、きちんと製本するだけだ」
両親が亡くなって一年と半年近く。なかなかページを集められず、気付けば一年が経っていて。大きく進展があったのは、本当にここ数日の話だ。なんとも間の抜けたことではないかと思っている。
それでも終わった。どんな経緯であれ、きちんと役目を果たせた。
一番上のページに手を伸ばし、そっと表面を撫でた。そこには異国の言葉で、ルルーの町の一番幸せだった頃のことが、懐かしむような口調で記載されている。そこから、どんな想いで筆者がこれを書いたのか、伝わってくるような気がした。
――もう、悲劇は繰り返してはいけない。
それが両親に報いることにもなるのではないか、と詩凪は思っている。
「穂稀の家名に懸けて、今度こそきちんと守り通してみせるから」
だから安心して眠っていて、と遠くの両親に向けて祈った。
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