断章

第6章

第1.5節 敵を欺くには味方から

 ――昨日の夜。


 談話室から逃げるようにして自室に戻ってきた凌時りょうじは、明かりも点けぬままにベッドの上に座り込み、頭を抱えていた。


「あの野郎……ふざけやがって……っ!」


 ぎりぎりと奥歯を噛み締める。脳裏には醒めた目をしたまさきの薄笑いが焼き付いていた。

 酷い言いがかりだ。新参者だから、というだけで、敵との内通を疑われた。確かに三人とも十年以上にわたる付き合いだ、彼らはお互いを疑うべくもないのかもしれない。

 でも、だからといって、敵に揺さぶりを掛けられただけで、こんなに簡単に切り捨てられてしまうのか。自分はその程度の存在だったのか。

 信用していただけに、腹立たしかった。


「くそ……っ」


 苛立ちを抑えきれずに拳を膝に振り落とす。これからどうすれば良いだろうか。敵との内通を疑われた以上、今まで通りに過ごせるとは思えない。この家を追い出されるだけならまだどうにかなるかもしれないが、問題は大学生活。この先、最低五年と半年分の学費を、奨学金とアルバイトだけで賄えるだろうか。賄えたとして、成績が維持できるのか。

 穂稀ほまれ邸を離れたあとの生活のヴィジョンが全く想像できず、目の前が真っ暗になる。

 そんな中で頭に浮かぶのは、この邸で過ごした日常風景だ。控えめに笑う詩凪しいなと、意地の悪くからかってくる柾と、つんけんしながらも気遣いを見せてくれるキキと、丁寧な物腰で間宮と、美味しいご飯を用意してくれる菊恵と。

 三ヶ月あまりの暖かい日々が、掌から零れ落ちていく。

 もう、戻れないのか。


 失意に飲み込まれそうになっていると、窓ガラスが鳴った。あまりに微かな音だったので、風の所為かと無視していたのだが、何度も繰り返されたので、気になった。――思えば、夏の夜。空調のない部屋にいて、何故閉めきっているのか。蒸し暑さを自覚したのもあって、窓を開けるのもかねて音の原因を調べにいく。

 と、月明かりの下に外に信じられないものを見たので、凌時は窓に飛びついた。


「柾、てめぇ! ツラ見せんなっつっただろう――」

「静かに」


 窓を開けて激昂しかけた凌時を、柾は冷静に押し留める。


「話があるんだ。入れてくれない?」


 凌時は窓枠に手を掛けたまま、柾をまじまじと見つめた。思えばこの部屋は二階。部屋にベランダはもちろん足場もない。近くには楓の木が植わっていて、柾はそれを登ってきたわけだが、なんでわざわざそんな苦労をして、凌時の部屋を訪ねてきたのか。

 しかも、邸の窓には防犯用の結界が張ってあったはずだ。常連客の柾は警戒対象外だとしても、さすがに窓の防犯には関わらないはず。


「……結界は?」

「切った」


 さらり、と応えて、木から窓へと跳び移り、窓の中へと身体を滑り込ませる。動作に危なげがない。日頃慣れている者の動きだ。

 ――というか、許した覚えがないのに、勝手に入ってやがる。


「さっきはごめんね。君を疑うような事を言って」


 木登りで乱れた服装を正した侵入者は、何事もなかったように凌時と相対して、涼しい顔をしてそんなことを宣った。


「反省したってか? どういう心境の変化か教えてほしいね」

「そういうのじゃないよ。そもそも僕は、本気で君を疑っていた訳じゃない。裏切り者は、僕のほうだからね」

「……はあ!?」


 はいはい、と適当に聞き流していた凌時だったが、さすがに最後の台詞は聞き逃せなかった。


桝水ますみ、夜なんだし、他人に聴かれたくないから静かにしてほしいな」

「いやいやいやいや、それどころじゃないだろ。どういうことだよ!」


 自分を裏切り者と謗った奴が実は本当の裏切り者で、それを糾弾した相手に告白してきたとか、いったいどういう展開なのか。


「〈グランギニョール〉は、もともと霧沢きりさわ家の組織だ。父が死んだときに、僕が頭目の跡を継いだ」


 家督と会社は兄が譲り受け、表から。父が陰で結成していた組織〈グランギニョール〉は柾が請け負い、裏から。そうやって霧沢の家を守ろうというのが、そもそもの予定だったらしい。

 現在はだいぶ在り方が変わっているようだが。


 凌時はふと、夕方のことを思い出す。


「そういや、さっきのあのガキが逃げられたのも……」


 結界が張られているはずの穂稀の邸で、ノエは窓から外へ飛び出した。あの後キキが言っていたのだが、彼が出た窓には、そこだけ窓ガラスが外されていたかのように、結界が綺麗になくなっていたのだそうだ。

 あの少年が破ったと思ったのだが、もしかしたら。


「僕が逃がした」


 そのまさかだった。

 凌時は頭を抱えて首を振る。何故だかとんでもない事態になっているのだが、いったいどういうことだろうか。


「……それで、なんで俺にそんな話をするんだ」


 凌時と柾は、信頼し合っているとはまあ言い難い。きっかけがあれば、すぐに揉める仲だ。何事かを頼る相手としては、不適格なはず。柾の告白が真実だとして――それを凌時に聴かせる意義が分からなかった。


「それは、君が間違いなく詩凪の味方をしてくれると確信できたからだよ」


 何とも反応しがたく、押し黙る。確かに詩凪を裏切る気も見捨てる気も毛頭ないが、人道に悖るとか、契約だからだとか、そんな理由に限られない。下心だってあるのだ。それを柾に認められるというのは、形容しがたい不気味さを覚える。


「知っての通り、〈異録いろく〉は危険な書物だ。僕はあんなもの、さっさと直して隠してしまえと思っているんだけど、厄介なことに兄がご執心なんだ。どんなに僕が説得しても聞く耳を持たないだろう。だから一芝居打とうと思ってね」

「一芝居?」

「僕は、詩凪を裏切る」


 斜め上どころか次元すら超えていそうな答えに、目を剥いた。


「兄さんは、僕が詩凪の味方をするんじゃないかと心配しているんだ。その憂いを絶って、油断させる」

「どういうことだ」

「本を独占したい兄さんは、穂稀家に修復をさせたい。けれど問題はその後。どうやって奪う?」


 一度こうやって分解してしまった後だ。詩凪は間違いなく厳重に保管しようとするだろう。そうなると、強奪もこっそり盗むことも難しくなる。


「そんな兄さんの頼みの綱が僕だ。僕なら詩凪の懐に入り込める。その隙に盗むことができるはず、兄さんはそう考えている」


 だけど、そこで問題が一つある、と柾は人差し指を立てた。


「僕は詩凪に甘い。僕を信じきれない兄さんは、僕が詩凪に付くんじゃないかと警戒している」

「……その考えを、お前が裏切ることで、断つ?」


 その通り、と柾は笑う。


「でも、そうすると詩凪に修復させることが難しくなるんじゃないか?」

「別に、兄さんにとって詩凪を懐柔させるのは二の次で良いんだ。誘導が難しければ、脅迫してしまえば良いからね。詩凪みたいな純粋な子、やり方はいくらでもあるよ」


 凌時は顔を顰めた。もしかすると、詩凪は柾のお陰で危うい一線から免れられていられたのではないだろうか。だとしたら、柾の過保護とも取れる執着心もそう悪いものではないのかもしれない。

 ……が、それだけに解せない。


「そこまでして兄貴を油断させたい理由はなんだ? 〈異録〉を諦めさせたいだけだったら、兄貴の心配通り、お前が詩凪に付けばいい話だろ?」

「それだけじゃ駄目なんだよ」


 柾は暗い瞳で嗤った。


「僕は兄さんに思い知らせてやりたいんだ」


 何気ない口調。だが、そこに仄暗いものを感じて、凌時は背筋を震わせた。

 何を思い知らせたいのか、だなんてとても訊けなかった。


「で、その一芝居に俺はどう絡むんだ?」

「君には、今すぐこれを持って行方を眩ましてもらう」


 す、とクリアファイルに入れられて差し出された紙を、凌時は受け取った。月明かりに透かして見て、アルファベットで書かれているのに気づく。


「……ページ?」


 英語のものとは違う綴りは、〈異録〉のページに書かれたものと似ている気がした。


「この前、舞台を観に行ったとき、一枚抜いておいた」


 はあ、とだけ応えた。いつの間にか盗んでいた柾にも驚きだし、気づかなかった詩凪にも呆れた。術を使った後だったので、油断したのだろう、とのことだが。


「詩凪が集めた分と〈グランギニョール〉が集めた分で、ページはすべて揃っている。あとは合わせるだけ。それだと困る」

「だから、俺に預けるって?」

「幸いというべきか、ノエが余計なお節介をしてくれた。だからそれに乗じて、僕は君が行方を眩ましても仕方のない状況を作り上げたというわけだよ」

「……なんか癪だな」


 一から十まで計画したわけではないとはいえ、相談もなく柾の都合の良いように謀られていることに変わりはないのだから、納得いかないのは事実である。


「ごめんね」


 悪びれもせずそういうところが、またムカつく。

 だが、嫌な奴ではないのだ。こうして面倒事に巻き込まれてはいるが。なんだかんだ親切にしてもらったこともあるし、こうして凌時が濡れ衣を着せられたのも、柾なりに事情のあることだと分かった。まして、それを告白までされ、協力を求められたりしたら。そう悪い奴ではないのかな、と思ってしまう。

 結局、自分は彼の言うことを聴いてしまうだろうな、と他人事のように思った。

 ――貧乏くじ引いたな、これ。


「機を見て僕は詩凪に〈グランギニョール〉であることを打ち明けて、詩凪の持つ〈異録〉のページ全てを奪う。いなくなるのはそのときだけでいい。これで僕の裏切りは成立する。その後は、僕たちは残りの一枚を求めて詩凪を襲うことになるだろうから……そのときに、君には詩凪を守ってほしい」

「お前の盗みの妨害と詩凪の護衛を両方やれってか……。行方を眩ますのは簡単だが、そのあとどうやって俺はこの家に戻るんだ? なにせ今、裏切り者疑惑が掛かっているんだぜ」

「そこは、僕が裏切ったことで晴れるだろう? あとは適当な理由をいえば、受け入れてもらえるさ」


 みんなお人好しだから、と柾は笑う。今だけは、いつもの嫌らしい笑みではない。温かく穏やかな笑みだった。きっと詩凪だけではない。この家の人たちみんなを信用していることを感じさせる。

 それだけに、凌時は躊躇した。柾はそんな人たちとの関係性を捨て去ろうとしているのだ。しかも、“嵌められた”凌時とは違い、柾は本当に裏切り者の立場となるのだ。柾の方こそ、全てが終わった後に再び受け入れてもらえるとは思い難い。

 たまらなくなって、凌時は尋ねた。


「お前さ……それは、そこまでのことをしてまでやらなきゃいけないことなのか?」


 彼がどれほど詩凪を大事にしているか、凌時は良く知っていた。それこそ尋常ではないほど思い入れているのではないかと、端から見ていて思う。

 ――もし詩凪を失ったら、彼はどうなってしまうのだろう。

 だが、柾は揺らぐことはない。


「全てを奪ってやるんだ。せめて、最後の大舞台のお膳立てくらいはしてやらないとね」

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