第5節 昨日の敵は、今日の友
すっかりなじんだ矩形の光が部屋の隅々に行き渡るのを、凌時は視界の端に確認した。割れてしまった高そうなテーブルに、雷で焦げてしまった綺麗なソファー。これ以上、この部屋に被害が増えることはないのだと思うと、少し安心した。貧乏人の間隔としては、やはりせっかくのお高い家具が壊れてしまうのはもったいないので。
違和感を覚えて、ふと天井を見上げる。なんとなく部屋が広くなっている気がする。大きな魔女の圧迫感が無くなっているし、詩凪や柾との距離が離れている。
まるで、部屋が風船のように膨張したような。
魔女の巨体による狭苦しさが、少し緩和されている。
「私が引き付けます」
固い声を耳にして、凌時は意識を隣に並び立つ人物に戻した。使用人服の女性は、楕円の眼鏡を光らせて勇ましくもそんなことを言う。
「キキさん――」
「援護を」
止める間もない。キキは短く凌時に言い残し、三つ編みを揺らして魔女の前に飛び出した。モップを槍のように前に突き出し、噴射した水流で魔女を押し流そうとする。
確かに、
ただ水流を浴びせるだけでは、魔女を押し留めるには不足であるようだし。
こちらまで飛んできた炎の帯を躱しながら、凌時は黒革の魔書を開いた。
「〝火の章、第二十七節〟。来い、〈
求めに応じて現れた、フードを被った黒い人影に、キキを守るように命じると、凌時は不貞腐れた表情で剣のエンブレムを弄る少年に目を向けた。あの反応からも分かる通り、実に不本意な命令だったのだろう。端から見て乗り気ではない。
「本当に大丈夫なのか……?」
凌時が胡乱げにノエを見る。今さっきまで敵だった相手である。命のやり取りまでしたし、クソガキだということも知っている。そんな相手と共闘なんて、お互いに気乗りしないのも無理はないが、今はそんなことを言っている場合ではない。
この場を切り抜けるためなら、凌時は我慢する。だが、ノエはどうだろうか。
少年は不服そうに鼻を鳴らした。
「失礼な。柾さまが言うんだったら従うよ」
「そう願いたいね」
皮肉げに応えて、凌時は新しいページを探した。
「〈
凌時の掛け声に応じ、魔女の頭の上から雷の塊が落ちた。電気の密度が高いのか、実体がないはずなのに重量を感じさせる白光の円柱。魔術の名称にふさわしい殴打に、さすがの魔女もその巨体をよろめかせた。
隣から、うわぁ、と間の抜けた声が上がる。
「初心者が使い魔を喚び出したまま上級魔術使うなんて。まあなんていう無茶」
「無駄口叩いてないで、とっとと行けよ!」
茶々を入れる少年にすかさず怒鳴りつけた。ノエの言うとおり、結構無茶をした。おかげで生命力やら魔力やらをごっそり持っていかれた気がする。突然の疲労感に集中力を維持するのにも神経が必要で、寛容さを取り繕う余裕がなくなっていた。
バランスを崩した魔女に、ただちにキキが追撃に出る。横薙ぎにしたモップに先端から、そこにすかさずウィルが炎で水を蒸発させた。高熱の水蒸気を上半身に受け、魔女が悶える。蒸気の火傷は身体の表面だけでなく、皮膚の下の方にまでに至る。そして、蒸気は拡散しやすいので、範囲もまた広い。見た目は異形とはいえ、人の組成からなるのであれば、さすがに少しはダメージになるだろう。
「仕方がないなー」
ようやくやる気を出したノエは、エンブレムを掲げて頭上に三本の剣を出した。
仕方がないじゃないだろ、と思ったが、言葉には出さず引っ込めた。口論している場合じゃない、と心の中で念仏のように唱える。その間に少年は、手を振り下ろして、魔女に向けて剣を投擲した。火傷を負った左側の半身――肩へ、胸へ、腹へと剣が突き刺さった。
キキが振り返らぬまま叫ぶ。
「遅いっ!」
「おねぇさん厳しい!」
調子に乗ってはしゃぎ出すまでになったこの少年を、やっぱり張り倒してやろうかと思ったが、次の瞬間、彼が凌時に身を寄せてきたので断念せざるを得なかった。
内緒話でもするように、低く声を潜める。
「……あの手の化物って、継ぎ目が弱点なのがセオリーなんだよ」
凌時は視線を上げた。キキを相手に暴れまわる化物の、その身体を観察する。
「継ぎ目」
「首んところの腕とか、翼んところとか。死なない怪物でも、解体してやれば動けなくなる」
冷静に語るノエの碧い瞳を見てしまった凌時は、背筋が凍るような想いを覚えた。こういう状況に慣れた者の、据わった目だった。五つは年下の少年である。そんな彼は、これまでいったいどんな殺伐とした経験をしてきたのだろうか。
「隙を見て、僕が狙う」
先程のふざけた様子も、反抗的な様子もすっかり引っ込めて、あまりに真剣なノエの姿に、反射的に凌時は頷いてしまった。
「……了解」
こうなれば、もはや否やはない。彼がどのような人間であれ、その見解は信用に足るものだと判断した。
「キキさん!」
前衛のキキに声をかけ、右の方――部屋の中心側を示す。魔女の意識をそちらへと向かせたい凌時の意図を、キキは正しく汲み取って、徐々にそちらへと場所を移していった。魔女の注目がキキに集中しかけると、凌時とウィルの炎で意識を逸らす。そうやって大胆に、慎重に、魔女を誘導していった。
その間に、ノエが凌時の背後を抜けて、魔女の後ろ側へと回った。調度品を足場にして高く跳躍、両手で逆さに持った剣を頭の乗った台座に突き刺そうと――
「……え」
空中で剣を振りかぶったまま、少年の頬がひきつる。次の瞬間には、身体の左側から攻撃を受け、凌時の左後方へと叩き落とされていた。
「ノエ!!」
「……くそっ」
悪態を吐いて、少年が起き上がる。ノエが睨み付けた先に、魔女の首の後ろから映えた触手があった。植物の蔓や鞭を連想させる、滑らかな表面の触手。あれでノエは叩き落とされたのだ。
忌々しげに、少年は言う。
「……後ろにも目がある」
「え――」
「もう一度!」
何処に、と尋ねる暇もなく、ノエは立ち上がった。これまでにない深刻な表情。彼は本気で魔女を仕留めにかかっている。
凌時は奥歯を噛み締めた。ムカつくとはいえ、子どもにこんな危ないことをさせるのは、気が進まない。しかし、今この場にいる人間で、魔女に決定打を与えられるのも彼しかいないのだ。
止めたいのを堪え、魔女に向き直る。ふと、胸元に刺さったままのノエの剣が気になった。たしかあれは、他の場所にも刺さっていたはず――。
凌時は右側へと大きく回る。大きく左を向いた魔女の左半身を見るには、当初魔女が背にしていた壁側にまで行かなければならなかった。下手をすれば追い詰められる危険性に魔書を開く。
「〝雷の章、第五節〟――」
ページの光を右手に移し、上方に手を向ける。
「〈
上方から下方へ、一筋の稲妻が走り抜ける。途中、導電性の金属でできたノエの剣を避雷針にして、胸から魔女の身体へと入り込んだ。凌時の予測通りなら、その電気は腹の剣に向かって流れるはず。そうすれば経路上に心臓がある。高電圧高電流の電気ショック。普通なら死ぬし、死ななくても何かしらの影響はあるはずだ。
凌時の祈りに応えて、魔女の動きが止まる。
すかさずノエが跳躍した。右の剣で暴れる触手を払い、左手の剣を首の境目に突き立てる。落ちていく最中、さらに剣を呼び出して、翼の片方を切りつけた。
魔女が絶叫した。
「よしっ」
握りこぶしを作る。効いた。深手も与えられた。これならやれる。
三人での連携に可能性を見出した凌時は、さらなる一撃を加えるべく、魔書の新しいページを開いた。
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