第3節 アブセント

「〈ルルー異録〉第二章第三節〈影法師〉」


 ここ一年ですっかり耳慣れた、藍の朗々とした解説。キキは呆然と、愉しそうに笑う人形を見た。


「魔女は、住民を従わせる方法の一つとして、その人物から影を切り取り、取り上げました。影を失った人間は、さあ大変。たちまちその姿さえも失ってしまったのです」

「どういうこと……?」


 困惑するキキの疑問に答えたのは、ノエだった。


「影は、光が遮られてできるものでしょ。それって、逆に言えば、影ができないものは光を遮ることがないってことだよね」


 じゃあ光を遮らないものってなーんだ、と指を一本立てながら無邪気を装ってノエは言う。


「空気……水……ガラス……」


 律儀に問題の答えを考えていたキキは、はっ、と息を飲む。

 回折や散乱を起こしているので、完全に不可視の存在ではないとはいえ、光を透過するそれらは皆――透明だ。


「……つまり私は、透明人間状態っていうこと?」


 キキは自分の手を持ち上げて見せた。自分の目に、自分の身体はくっきりと見えている。自分が透明人間だなんて、全く持って信じ難い。

 だが、足下を見落とせば、追従する影は見当たらなかった。地面に一点の滲みもない。普段視界に入れても気にも留めていないというのに、影がないだけで、どうにも据わりが悪かった。


「そうなるね。まあ、僕は術者だからか、おねぇさんのこと見えてるんだけどさ」


 それもまた、自身の状態が信じられない要因だった。目の前にいる誰も、キキのことを探さない。キキをはっきり認識し、まっすぐに見つめてくる。虚言ではないのか、とすら思った。今ここにキキの不在を証明する者はいないから。


「困ったね。おねぇさんはもう、大事なお嬢様に認識されることがないんだよ。そして、お嬢様も困るだろうね。突然召使いがいなくなっちゃってさぁ。捨てられたと思って、泣いちゃうかもね?」


 いい気味だ、と少年は嘲笑する。


「それとも気にしないのかな? 使用人なんて、空気みたいなもんだし。あなたのことさっさと忘れて、次の人雇ってるかもね」


 こちらに向けられる悪意に、キキは歯を強く噛み締めた。


「まあ、でもその前に、みーんな消えちゃってるかもしれないけどね」

「……それは、どういう」

「僕はこれから、お嬢様の周りの人、全員消すつもりなんだ。お嬢様の近くで、一人ずつ。気付かれないように」


 あんたはその一人目なんだよ、とキキを指差し、


「面白いから、この家の中でやろうかな。さっきまで話してたのに、ちょっと目を離したらみんないなくなっちゃって、きっとお嬢様、おどおどしちゃうんだろうなー」

「……貴方、さっきから……詩凪になんの恨みがあるの!」


 さっきから、泣くだとかおどおどするだとか、詩凪がそうなるようなことを望むような言葉ばかり。その一方で、貶めるようなことも言ってみたり。いずれも詩凪に対して含むところのある、悪意に満ちた言動。身内びいきで擁護したくなる点を考慮しても、詩凪がほぼ初対面相手にそこまで言われる所以はないはずだ。


「別に? ただあのお嬢様が気に入らないってだけだけど」

「そんなことで……っ!」


 あっさりと自らの身勝手を告げるノエに、キキは逆上した。


「貴方を詩凪に近づけるわけにはいかないわ」


 キキは箒を振り上げた。そして力の限りまっすぐに振り下ろす。


「出ていきなさい!」


 箒の軌道に沿って、これまで以上の突風がノエを襲った。両腕で顔を庇う少年は、向かい風の勢いに負けて、門の外へと放り出される。

 その後を追うように、キキは駆け出した。門へ飛び付くと、もう一度旋風を巻き起こし、少年を家から遠ざける。その間に、門を閉じて鍵を掛けた。


「そんなことをしたって、何の解決にもならないよ? 影はこっちにあるんだし」


 だいたい追い出したところで意味ないだろ~、と少年は嘲笑う。

 言われるまでもない。むしろ詩凪は現在外にいるのだから、追い出すほうがかえってよろしくない。

 だが、この少年が詩凪の居場所に踏み込んでいるということが、キキには我慢ならなかった。


「……まあいいや。邪魔するってんなら、せいぜいやってみなよ。もっとも、あんたにできることなんて、僕を追い出すことくらいしかないけどね?」



   □ □ □



「キキがいない?」


 学校から帰ってきた詩凪は、玄関で間宮から報告を受けて、困惑の表情を浮かべた。


「ええ。昼過ぎに庭の掃除をしていたはずなのですが、いつの間にか姿が見えなくなって」


 現在も影も形も見えないのだ、と間宮は言う。

 言い得て妙だな、とキキは思った。確かに自分は今、影も形もない状態だ。


「買い物とか」

菊恵つまは何も頼んではいないと言っております」

「え……じゃあ、どうしたんだろう」

「黙ってどっかにふらふら行くような子ではなかったはずなんだけどな」


 何かあったのかな、とあのまま穂稀家に居座っていた柾は首を傾げた。まるで他人事のような柾の物言いに、キキは久々に苛立ちを覚えた。相変わらず、詩凪以外に無関心な男である。詩凪を通した長い付き合いなのだから、友人とは言えずとも同志くらいには見てくれてもいいはずなのに、実際はこの程度。如何にこの男が薄情であるかがよく知れる。


 ノエに影を切り取られて数時間。まずキキは、本当に自分の姿が透明になったのかを確認した。結果は先程の会話の通り。間宮や柾の正面に立っても全く認識されなかったし、鏡に映ることもなかった。今こうして会話の輪に加わる位置にいても、誰もキキのことを気にした様子がない。

 影がないということは、光を遮らないということ。光を遮らないということは、透明だということ。なるほど、本当にそういうことなのか、と我が身の不幸を忘れてただ感心する。

 ただ、不思議なのは、自分で自分の姿を認識できること。俯けば、自分の手足、胴体は見えている。術者も影を取った相手の姿が認識できると言っていた。この辺りの説明がつかない。まあ、魔術だし、なにやらご都合的なことがあるのだろう、とその点については今は置いておくことにする。


 さて、次にキキが確かめたのは、この透明人間状態でいったい何ができるか、ということだった。要は、物を持てるか。音を立てられるか。

 結果、前者は無理だった。触れることはできる。感触もある。が、どういうわけか動かすことができない。物を持ち上げることも、押すことも。つまり〝ポルターガイスト〟を引き起こすことは不可能だ。文字を書いて現状を伝えたりできないかと期待したが、無理だった。

 それと同じ原理で後者も無理だった。音を立てるには、どういった方法でか音を振動させる必要がある。その程度の小さな動きも働きかけることも、この状態ではまた不可能。

 では、自分で出すならば?

 試したが、これも通じなかった。他ならぬ父に呼びかけてみたのだ。聴こえていながら無視するなんてことはあり得ないから、聴こえていなかったのは間違いない。


「どういたしましょうか」

「心配だけど……でも、どこを捜せばいいんだろう」


 何もせず立ち尽くすキキを他所に、父と詩凪はキキの行方を話し合う。

 そうこうしているうちに、詩凪も柾も間宮も階段を上り、階上に消えていく。一瞬だけ柾が振り返ったような気がしたが、何事もなく立ち去ってしまった。

 キキはただ、じっとそれを見送る。


「どうかなさいましたか?」


 誰もいなくなった玄関に、ふと言葉が落とされる。振り向いてみれば、いつの間にか藍が立っていた。


「藍様、何故ここに」

「ただの見物ですよ。……ああ、ノエはまだ、この家に侵入していません。私ももう、手引きをする気はないので、ご安心を」


 先ほど平然と裏切るようなこと――はじめから味方のつもりもなかっただろうが、ここは敢えてそう言わせてもらう――をしておきながら、ぬけぬけと彼は言う。そればかりか、キキがこうして困っているのを高みから見物して、本当にいい気なものだ。

 と、腹を立てたところでキキは、はたと一つの事実を思い出した。


「藍様は私のことが見えておられるのですね」


 ノエの口振りだと、透明になった人の姿は、透明になった当事者と術者にしか見えないとのことだった。しかし、藍ははっきりとキキのことを視認している。


「私は、この世の理から少々外れております故」


 はあ、と頷く。相変わらず、釈然としない。

 良い機会だから、とキキは口を開く。


「前から気になっていたのですが、貴方は何なのですか?」


 突然現れ、協力を申し出て詩凪たちに付きまとい。


「私は、この地域に棲む存在ものの一つに過ぎません。ただ少しばかり面白がりでして。こういうことに、つい首を突っ込んでしまうのですよ」

「面白そう、というだけで、私は身の存在が危ぶまれているのですが」

「それは私の関知するところではございませんので」


 申し訳ないことですが、と形ばかり頭を下げる。引っ掻き回すだけ引っ掻き回しておいて、自分の知ったことではないです、とは……本当に本当に腹が立つ。

 腹は立つが、人外相手にこの怒りをぶつけたところで仕方ないだろう。通じない相手に怒りをぶつけたって虚しいだけだ。それは分かっていたので、キキは視線を落とし、握りしめた箒で玄関の白いタイルを掃いた。柾や詩凪が持ち込んだ砂埃は、巻き上がることすらしない。そういえば箒も一緒に透明になったのだと気付かされ、現状掃除すらできない事実にますます苛立ちを募らせた。


「それで、どうされたのですか?」


 突然の問いかけに、キキは虚をつかれた。……いや、突然ではないか。はじめに藍は、どうかしたか、と声を掛けている。


「別になにも……」


 はぐらかそうとしたところに、自らの内心が透けて見えてくるようで、キキは口を噤んで視線を逸らした。

 その様子を見た藍が訳知り顔で頷く。


「……なるほど、貴女は詩凪様に見つけていただきたかったのですね」


 図星をついた答えに、キキは言葉に詰まった。


「……笑いながら言わないでください」


 貼りついた笑みがいっかな消える様子のない顔に、キキは嘆息した。


 キキの頭の中では、さっきからずっとノエの言葉が反響していた。

 ――使用人なんて、空気みたいなもんだし。

 ――あなたのことさっさと忘れて、次の人雇ってるかもね。

 そんなはずはない、とすぐに否定してみるものの、不安は完全に取り払えなかった。

 だって、詩凪が姉のように慕ってくれているとはいえ、自分は所詮使用人なのだ。代えは効く。いなくなっても問題ない。詩凪が慕ってくれているのだって、たまたま年の近い女が自分しかいなかっただけだったりしたら。


 キキは頭を振った。


「……我ながら、実に馬鹿馬鹿しい話です。なんて子ども染みた願望」


 仮にそうだとして、なんだというのか。キキは使用人だ。そもそも、主人に友情を期待する方が間違っている。


「申し訳ございません。お客様相手に、お見苦しいものをお見せいたしました」

「構いませんよ」


 にこにこと藍は応じる。


「……そうですね。一つ、良いことを教えて差し上げましょうか」


 なんの気まぐれを起こしたのか、藍は口元をキキの耳に近づけた。

 実はですね、と潜めた声で伝えられたそれに、キキは目を丸くした。


「……そんな簡単なことで?」

「魔術は世界の法に干渉するもの。事象の関係性によるものです。であれば、その前提さえ崩してしまえばどうにかなります」

「なるほど、一理ありますね……」


 藍の助言を脳内で繰り返しながら、キキは考え込む。

 確かに前提を覆してしまえば、現状を打破することはできる。

 問題は、そのあとどうするか、だ。

 キキは玄関の扉を背にして、邸の中を見回した。知り尽くした穂稀の家。あの少年ノエを捉えるには――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る