第3節 再現

 柾が詩凪に目配せをする。心得た詩凪は、先ほど棚から出した、茶色の表紙の絵本を脇から取り出した。


「魔書には一つ、共通した特性があります。それは、〝再現〟すること」

「再現?」


 問い返す凌時に、表紙がよく見えるように絵本を掲げて見せる。


「これは、リスが主人公の絵本です。もちろんただの絵本じゃありません。絵本だけど、これも魔書」


 詩凪はその本を開くと、既にほどかれたページを一枚取り出し、テーブルの上に置いた。柔らかいタッチで描かれた、森の中を歩いている可愛らしいリスの絵。そんなものを見せてどうするのか、と凌時は訝っている。


 それがふと、ひとりでに動き出した。

 紙の中心がせり上がり、界面膜に息を吹き込まれてできたシャボン玉のように、立体的な形を取っていく。はじめはただ均一に膨らんだだけの球体でしかなかったが、次第に場所によって膨らみ方を変え、だんだんリスの形になっていった。

 本物とは違う、水彩色鉛筆で着色されたイラストレーションのリス。

 遂には、凌時が呆気にとられているのをよそに、テーブルの上をチョロチョロと動き出した。テレビでよく見るアニメーション。それが三六〇度好きな角度で見れるという奇妙な現象が、目の前で起こっている。


「これが〝再現〟」


 そう言って詩凪は上手にリスを捕まえると、頭の上からリスを押さえつけるかのように掌を置いた。潰されたリスは、もとの紙一ページに戻っている。


 魔書は意志を持っている、とかつて何処かの魔術師は言ったらしい。意志といっても決して思考活動をするようなものではなく、ただ自分の役割を果たそうとする力のようなもの、であるらしいが。


 本は、情報を伝達する道具だ。しかし、それはあくまで手段に他ならない。本に記して情報を伝達する目的。様々あるだろうが……総括すると、何かしらの方法で〝再現〟を可能にすることにある。

 研究論文は、閲覧者が執筆者の打ち出した実験結果と同じものを得られるようにするために。

 脚本は、同じ物語を何度も繰り返し演じられるように。

 無論これに限らない。小説も、エッセイも、日記も、詩も、何もかも、何かを再現させるために記録されたものなのだ。


 そんな本に魔力が絡むと、どうやらひとりでに目的を遂行しようとする作用が働いてしまうらしい。縮んだコイルバネが自然長に戻ろうとするが如く、魔力をもって書かれた内容を実現させようと働きかける。それを件の魔術師は〝魔書の意志〟と称した。


 だから、わざわざ魔書を専門としたルリユールが必要になる。彼らの役割は、本の表紙を飾ることだけではない。その魔書の意志を抑えることにあるのだ。


 しかし、今問題となっている〈ルルー異録〉は、ばらけてページだけとなってしまったがために、その抑止力が働いていない状態だ。


「……つまり、飛んでいったページもこういう風に別の形を取って怪奇現象として動き出すから、一枚一枚地面に落ちたのを拾っていくのとは違って、回収は不可能ではない、ということですか」


 ああ、それなら……、とばかりに顎に手を当てて頷く。ページ回収というが、ようは捜し物ではなく怪奇現象を追う探偵じみたことをするわけだ。

 凌時は、そこではたと気づく。


「……いや、でも、〈異録〉のページって何枚」

「四百ページ余り。だいたい二百葉です」

「二百……っ」


 ひくひく、と盛大に凌時の頬がひきつった。やっぱり無理だ、とでも思っているに違いない。


「でも、起こる現象はそれより少なくなるはずなんです」


 〈ルルー異録〉は、出来事を綴ったものだ。つまり物語。だからなのか、今回、それは〝章〟や〝節〟――物語の一場面でひとまとまりとなって現れたのである。


「実際、私たちがこれまで回収してきたページも、一節単位で集まりました」


 そして異録は、一章四節の七章仕立て。合わせて二十八節分の話が収録されている。つまり、単純に考えれば二十八の怪奇現象を調べて解決すれば良いわけだ。

 そして、散らばってしまった一年前から今日まで、詩凪たちはすでに十節分のページの回収に成功している。


「なるほど、それは確かに現実的だな」


 一年で十節分の回収。半分に満たない数だが、残りの数を考えると、気の遠くなるような話ではない。


「で、その回収に人手が必要、と」


 怪奇現象を追う、なんて魔術師にはありがちな仕事を凌時は受け入れようとしていたが、


「そんなに単純な話じゃないよ」


 少し楽天的にも見える反応を示す凌時を見かねてか、もう一度柾が割って入った。また訝しげに凌時の眉が寄せられる。


「言っただろう? 命の危険があるって」


 魔書は、記載された内容を再現する。そして〈ルルー異録〉には、町が滅びに向かうほどの悲劇の記録が記載されている。

 失われたページは、今その悲劇を再現できる状態になっているのだ。


「だから、私たちは、かつて町を滅ぼした〝悲劇〟と戦っているんです」


 そして、凌時もその悲劇と戦うことになる。


 静かに告げた詩凪の言葉が、重みをもって部屋の中に満ちていく。柾は沈黙をもって肯定し、キキもまた余計な口は挟むまいと黙する。

 詩凪もまた口を閉ざしていた。去来する一年を振り返りながら、凌時の反応をじっと待つ。


「うーん……まだいまいちピンと来ない」


 腕を組ながら、凌時が唸る。途端、強ばっていた空気が霧散した。


「あれだけのものを見ておきながら呑み込めないなんて……」


 やれやれ、といつもの調子で柾が頭を振った。呆れた様子の物言いが凌時には不服だったようで、すぐさま言い返した。


「あのちっこいリスが飛び出るのと、本に書かれた悲劇の再現とやらはそうそう結び付きませんよ。動物はまあ分かりやすいけど、悲劇は事象でしょう?」


 どんな風に再現されるのか、全く検討つきません、と言い切った。

 確かに、と詩凪は一人反省する。あのリスと〈異録〉の悲劇に準えた怪異を同列に扱うのは、無理があったかもしれない。

 どうしたものだろうか、と頭を悩ませる。


「では、早速今宵体験しては如何でしょう」


 乱入した高い少年の声に、全員がはっと頭を上げる。執事まみやの取り次ぎの声もなく、きぃ、と音を立てて応接室の扉が開く。

 ご機嫌よう、と一礼して立っていたのは、青色に身を包んだ少年型の人形だった。年の頃は十二、三。白皙の美貌。真っ直ぐな栗色の髪に、藍玉アクアマリンの象眼。袖にフリルのついたシルクの真珠色のシャツに、同じくシルクの群青のジャケットとハーフパンツ。頭の上には、黒いレースのリボンで飾り立てられた群青色のミニハットが左に傾けられて乗せられている。


アオイと申します。藍色あいいろの藍と書いて、アオイです」


 少年は頭のミニハットを左手で取り、右胸の前へと持ってくる。右腕は少し開くように躰から離し、右足を後ろへと引く――つまり、礼を取った。


「ここへ来た初日で、実に多くの人に会われたことでしょうから、覚えるのは後回しで構いませんよ、桝水様」


 そうは言うが、おそらく無理なんだろうな、と詩凪は思う。詩凪が今までに出会った誰よりも、この少年は異色だ。印象に残らないはずがない。

 実際横目で見てみれば、豆鉄砲を食らった鳩のように面食らった様子で、凌時は藍のことを凝視していた。

 その瞳には、忌避の色が浮かんでいる。藍の持つ底知れぬ雰囲気を感じ取っているのだろう。詩凪はいつも彼を前にすると、自分の影に相対したような気分に陥る。覗き込んでいるようで覗き込まれているような、見たくないものを見ているような。そんな不安感を感じてしまうのだ。


 しかし、当の藍はそんな凌時の視線など全く気にも止めず、それどころか自分から話しかけておいて彼を無視して、いつものように陶器人形ビスクドールのような作り物の笑みを詩凪に向けた。


赤庭せきば市の大通りで妙なものを見た、と噂になっております」


 〈異録〉による怪奇現象と思われますので、赴いてみるのがよろしいかと。藍は慇懃いんぎんにそう告げる。

 詩凪が〈ルルー異録〉のページ探しをはじめて幾ばくか経った頃、彼は突然目の前に現れた。そして、怪異の噂を聞き付けては、今日のようにこうしてどこからともなく現れて、それを詩凪に教えてくれるのだった。

 その目的は、知れない。本人はただ、〈異録〉の現象が見たいのだという。それに四苦八苦する詩凪たちの姿も、だ。


「車通りもなくなった深夜。赤庭駅の西に十分。赤庭第二高等学校に面した、片側二車線の交差点にございます。今宵は満月。百鬼夜行に相応しい夜となりましょう」


 そうして、ようやく凌時のほうに目を向けて、


「きっと愉しい夜を迎えられることと思いますよ」


 少しだけ笑みを深めた。

 びしり、と凌時の表情が凍りつく。

 それをしげしげと満足げに眺めたあと、藍は凌時にそれ以上何の言うことなく、いとまの挨拶をして出ていった。


「なん……だ、あいつは」


 藍が開け放したままにしていた扉をキキがそっと閉じた後、凌時は大きく息を吐いて、ソファーの背にもたれかかった。鳥肌でも立ったのか、自らの腕を擦るような動作をする。


「なんか……得体の知れない感じが……」

「それが判るっていうんだから、勘は悪くないみたいだね」


 ここに至ってようやく凌時に対して揶揄するのを止めることにしたらしい、笑みを引っ込めて真摯な様子で――というのは、きっと他人には分かりにくいが――凌時を見据えると、忠告した。


「彼は人間じゃないよ。心してかかると良い。きっと君みたいな奴を振り回すのが好きだからね」

「……そうします」


 素直に頷いた凌時に満足したらしい柾は、やれやれ、と立ち上がった。


「なんにせよ、今晩は忙しくなるね」


 腰に手を当て、キキを見やったあと、詩凪を見つめて付け加える。


「歓迎会は延期だね」


 あ、と詩凪は顔を上げて、柾の掛けたソファーの向こう側にいるキキを見上げた。柾の言うとおり、詩凪たちは今日からこの家で過ごすことになる凌時の歓迎会を計画していたのだ。ただいつもより豪勢な食事を出すだけではあったが、食事の準備――食材の買い付けや仕込みはもうされていたはず。

 視線を受けたキキは、仕方がない、とばかりに頷いた。

 準備を無駄にさせてしまった。詩凪はがっくりと肩を落とす。

 柾は残念だったね、と笑うだけだったが。

 もてなされる側の凌時が励ましてくるのが、なんだか可笑しかった。

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