第5章 センチネル・メイド

第1節 スタンド バイ

 キキの朝は、食堂から始まる。

 食堂は、穂稀ほまれの家に住む二人が真っ先に来るところ。夕食後はまともな片付けはできないため、朝一番にここを掃除することに決めていた。

 一日で積もった埃を落とし、床に掃除機をかける。そのあとに水拭き。食べこぼすような人は誰もいないが、それでも塵が落ちていることがあるので、手は抜けない。例えば、パンくず。テーブルの上に置いたり千切ったり食べたりしていれば、ちょっとした弾みでクロスの上のくずが床に落ちることもあるのだ。そういうごみを綺麗に回収して、食堂に相応しい衛生環境を保つ。


 掃除が終わった頃に、いつもは凌時りょうじが起きてきて、遅れて詩凪しいながやってくる。ここでのキキの仕事は配膳だ。

 今日は休日だからだろうか、普段と違って、いつもより遅い時間に詩凪が食堂に現れた。まだしゃっきり起きていない顔で、もそもそと朝御飯を食べる。

 休みの日でも早起きな凌時は来ない。


「凌時さんは?」


 自室に引き上げたあとのことなどまさか知るはずもない、と思いながらも、念のため詩凪に尋ねた。何か聞いているかもしれない。

 と思ったのだが、詩凪も知らない、と首を振った。


「試験前って言ってたから、それでかも」


 試験勉強で夜更かしか。

 なるほどな、と納得する。


 詩凪の食器を片付けた後、間宮一家はようやくここで朝食となる。朝食に関わらず、使用人家族の食事は、主人と客人に出した食事の余り物。といっても当然残飯を食べているわけではない。母の菊枝がはじめから三人分余るように――つまり主人と使用人の食事をはじめから一緒に作っているというだけだ。


 食事が終わると、食器洗いと洗濯を母に任せて、キキは掃除を再開する。まずは食堂をもう一度。朝の食事の痕跡を片付けるためだ。その後向かうのは、応接室。次に玄関、同時に一階の廊下を綺麗にし、所々に置いてある花瓶の花と水を変える。今の季節は、グラジオラスやサルビアなどの花が多い。サルスベリも少々加える。サルビアの赤を白やピンクの花で引き立てて、夏らしい明るさと活気のある色合いにする。

 中を掃除したら、庭掃除。基準は、客人が訪れたときに立ち寄る場所から。

 一階を綺麗にしてようやく、居住区画の二階に着手する。因みに、工房は詩凪がいるときしかしない。あそこは彼女の聖域。不用意にキキが手を出して良いようなところではない。


 掃除機を手に持って二階に上がると、ちょうど凌時が顔を出した。なんだか怠そうな様子で、キキに挨拶する。


「夜更かしをされたのですか?」

「はい、試験勉強で」


 頷く凌時の顔には疲れが浮かんでいた。隈ができていないところをみると、それなりには休めているのだろうが、夜更かしはしているのだろう。キキは数年前を思い出す。高校に通っていたときは、キキもそうだった。日頃家事を優先させていたから、毎日の勉強時間は短めだった。その皺寄せは、試験前に来た。付け焼き刃のテスト勉強で、何とか試験を乗り切っていたのだ。

 そんなキキと違い、凌時はどちらかというとコツコツ日々積み重ねていくタイプに見えたので、少し意外に思う。が、思えばアルバイトに〈異録いろく〉のページ探しにと忙しい日々を送っているのだ。その所為で勉強が足りなくなっている可能性も往々にある。

 奨学金も取っているようであるし。気は抜けないに違いない。


「なかなか、内容が飲み込めなくて」


 そんな凌時は、恥ずかしそうに頭を掻いて言った。


「大学の勉強って、高校の勉強とぜんっぜん違うんですよ。いきなり新事実を突きつけられたりしてね。有機化学なんて、炭素酸素水素の配列を覚えるだけの教科だろ、とか思ってたら、一回目でいきなり混成軌道sp3やsp2の話をされて。まあ、後で化学結合の話だって分かったんですけどね」


 と、ここまで喋って、凌時は頬を赤らめて、すいません、と謝罪した。つい愚痴を溢してしまったことが恥ずかしくなったようだ。


「朝食、お食べになるのでしたら母にお申し付けください。すぐにご用意いたしますので」

「ああ、いやでも悪いから、部屋で食べますよ。掃除した後でしょう?」


 凌時は自分の胸の前でひらひらと両手を振る。人に世話されることに慣れていない彼は、ここに来た当初からずっとこんな感じで遠慮ばかりしている。自分の部屋は自分で掃除し、食事の前後は配膳や片付けを手伝おうとする。はじめのうちなんて、皿洗いまでしようとしていた。それについては、キキたち使用人の仕事がなくなって困る、と言ったら止めてくれたのだが、部屋の掃除と配膳の手伝いの方は相変わらず。

 しかし、彼がそんな風に謙虚であるからして、キキの凌時に対する評価はずいぶんと高い。隣人のまさきなど、ここに来ればまるで我が家のように振る舞っているというのだから、大きな違いだ。……まあ、柾も最低限の遠慮はしているし、なにぶん付き合いは長いので、今更不快にも思わないが。


「お気遣い無く。凌時さんは散らかすような方ではございませんから、後片付けも大してせずに済みますし」


 じゃあ有り難くいただきます、と謙虚に凌時は会釈して階段を下りていった。それを見届けて、キキは掃除に取り掛かる。

 廊下の照明に付いた埃をはたきで落とし、掃除機を掛ける。その後にモップ掛け。自らが触媒として頻繁に使用しているだけあって、これが一番楽しい作業だ。といっても、毎日のように床を磨いているのだから、大した汚れはなく時間は掛からない。

 床が終われば、各部屋の掃除に取りかかる。凌時は自分で自室の掃除をするというし、今は不在のキキの叔母は自分がいない間は部屋の掃除は不要だと言っていたので、キキが手をつけるのは、詩凪の部屋と書斎と談話室だけだ。人のいない空き部屋は、週に一度窓を開け、掃除は月に一度だけ。

 詩凪の部屋は、キキが幼い頃からしつけただけのことはあって、綺麗に片付いている。ベッドを整える他は物の整頓などする必要もなく、埃を落とし、床を磨くだけ。こちらも意外に手早く終わる。

 次は談話室。こちらは利用頻度が高いので、それなりにきちんと掃除する必要がある。が、汚す人もいないので、さっと終わる。

 最後は書斎。


「あ、キキ」


 これから掃除をしようとして入ったその部屋に、詩凪がいた。執務机に座り、何かを眺めていたようだ。

 出掛ける予定は聞いておらず、一階にも自分の部屋にもいないとなれば、詩凪がここにいるのは当然だ。思い至らず、驚いた自分が少し可笑しい。


「お掃除お疲れ様。今日、ここはいいよ」

「分かった。……何を見ていたの?」

「〈異録〉をね。どのページが足りないのかなって思って」


 そうして詩凪は机に拡げていたページを丁寧にまとめて木箱の中へとしまった。縁に花と羊歯の彫刻が施されたその箱は、詩凪の母が作ったもので、中のものを大事に大事に守る結界の術が施されている。

 そっと箱の蓋を閉じ、鍵をかけて、その表面を撫でながら、詩凪は嘆息する。


「この中の何枚が、あの人たちの手に渡ってるんだろう……」


 ぽつりと漏らされた言葉に、キキは一週間ほど前のことを思い出す。



   □ □ □



 それは、詩凪が柾と都心に舞台を見に行った夜だった。

 舞台を楽しんで舞い上がった様子で帰ってくるはずの詩凪の表情は、珍しく暗いもので、まさか柾が選んだものが気に入らなかったのかと驚いたものだが、実際はそんなお気楽な話ではなく。

 凌時も加わって聞いた話に、キキは驚きを隠せなかった。

 〈ルルー異録〉のページの一部を所持し、その凶器を人に向けたという少年。そして、


「〈グランギニョール〉、ですか」


 いつものように突然穂稀の家にやって来て、当然のように春色の応接室で寛いだアオイは、キキの出した紅茶を片手にしながら筆で描いたような眉を顰めた。


「聞いたことはありませんね」

「本当か?」


 不信感を持って言う凌時に、心外なのか怪訝そうに藍は問い返した。


「本当、とは?」

「あんたのことだから、〈異録〉に関わることは全部知っていそうなものだけどな」


 おそらくに人間ではないこの少年は、詩凪がページ集めを始めた当初から、こうして神出鬼没に姿を見せ〈異録〉の情報を提供してくれていた。しかし、それが親切心ではなく面白がった故の行動であるのは、わざわざ詩凪が封印するのを見に来ることからして明白だ。

 そんな彼が〈異録〉のページの術を使おうとするような人間たちの存在を知らないというのは、確かに不思議なところではある。


「……確かに。そう言われてみると、私がその一団に関わっていないのが不思議に思えてきますね」


 しまった、という顔つきになる凌時。これではむしろ煽ったようなものだ。彼の顔を呆れた様子で柾が見やっている。


「彼らの目的は、〈異録〉?」

「そうみたいです」

「そうですか……」


 ふむ、と顎に手を当て考え込む藍の姿に不安を覚えたのは、キキだけではなかったはずだ。凌時が目に見えて動揺を露にし、それを見た詩凪がさらに不安がる。


「こちらでも少し調べてみましょう。何か分かればお知らせします」

「あー……ほどほどでいいぞ」


 寝返られそうな気がするから、と言外に言っているような気がした。

 しかし、凌時の言葉を聞いていないのか、藍は何も返すことなく一礼して応接室を去っていった。


「まさかのライバル出現なんてな」


 藍がいなくなったことで気が抜けたのか、ソファーの背にもたれた凌時はやれやれ、と空を仰いで肩を落とした。


「ライバルというより、妨害者でしょう。……〈グランギニョール〉。何故今出てきたのか気になりますが」


 苦々しく呟いたキキの言葉に、詩凪が顔を上げる。


「どういうこと?」

「これまで彼らは密かにページの回収を行ってきたのよ。管理者である穂稀に気付かれないようにね」


 詩凪たちから聞いた話や敵の言葉から考えるに、彼ら〈グランギニョール〉は、まず間違いなく〈異録〉の力を独占したいと思っているはずだ。


「でもそのためには、私たちに存在を知られない方が都合が良いはずなのに、どうして今、のこのこ姿を現したのかしら」

「残りのページが欲しくなった、とかじゃないですかね」

「でしたら、盗んだ方が早いでしょう。可能かはさておいて」


 彼らは穂稀家がページを集めているのは知っている。場所に見当がついているのだから、わざわざ宣戦布告などせずとも、侵入して奪い取った方が楽だろうに、とキキは思うわけだ。

 確かに、と詩凪と凌時が頷く。揃って素朴な反応を示す二人に、キキの口元が少し緩んだ。おっとりとした詩凪と、粗暴な言動はするものの良心的な凌時。この二人が意気投合している様は微笑ましい。

 柾なんて、なかなか鬱屈した精神の持ち主なので、たまに不安になるのだ。詩凪に悪影響を与えはしないか、と。

 ――とは、本人を前に口が裂けても言えないが。


「……ただページを手に入れるだけでは駄目なんだ。きちんと本にしないと」


 静かな柾の言に、その場にいた全員が彼に注目した。珍しくソファーにもたれず前屈みに座っている柾は、両手の指それぞれをとんとんと突き合わせながら言う。


「〈異録〉をきちんと製本できるのは、詩凪だけだ。あの本は、長いこと穂稀の技術で補修されているから」

「狙いは詩凪、か……」


 その事実が示すことに気づいたのか、凌時は眉間に皺を寄せた。


「放っておいても、向こうからなんらかのアプローチを掛けてくるかもしれないけれど……」


 キキも、柾も凌時も、不安げにしている詩凪のほうを見た。それは、詩凪をみすみす危険にさらす可能性があるということなのだ。

 ただ、他に手の打ちようもない。


「ただ待つしかないのね……」


 それは、酷くもどかしいものだった。

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