第4節 打ちのめされる。

「そんなのやってみないと判らないよ!」


 ノエはポケットの中の剣のエンブレムを取り出すと、凌時に向けて突き出した。すぐさま凌時が地面を蹴る。横跳びに躱したその場所に、落ちてきた剣が突き刺さった。


「殺す気かよ、この野郎」

「さあね。どうしようかな」


 ノエは顎に指を当てて頭を傾げる仕草をした。その表情は悪意に満ちている。

 凌時は苛立ちながら魔書を取り出して開いた。凌時とノエの間を紫電が走り抜ける。


 一方キキは、フランセットに向けてお得意の水の術を繰り出していた。応戦するフランセットは、樫の杖を振り、キキの術を跳ね返す。


「詩凪、今のうちにこっちへ」


 戦いの向こうで柾に手招きされ、詩凪は束の間迷った。キキと凌時が戦っているのに、自分は逃げ出すのか。 

 だが、凌時とキキが戦っている今、詩凪ができることも見当たらなかったので、大人しく柾に従った。


「大丈夫だった?」

「うん、特に何もされなかったよ」

「そう。それはよかった」


 しゃきん、と音がする。それが何の音かと理解しないままに、金属が床に落ちる音がして、詩凪は地面に目を向けた。

 いつも詩凪が首にかけている、〈異録〉のページをしまっている箱の鍵が落ちている。


「……え?」


 詩凪は首筋を触る。鍵に通していた革紐がない。改めて地面を見れば、鍵にひっかかったままのそれがやはり落ちていて、変なところですっぱりと切れている。


「マサくん?」


 顔を上げると、柾が眉をハの字にして、困ったような笑みを浮かべていた。よく見せる表情の中に違和感を覚えて、詩凪は眉根を寄せる。


 ――そういえば、いつもは県外の学校にいる柾が、何故今日に限ってここにいるのだろう。


 彼の午前中は毎日講義で埋まっていると、彼自身の口から聞いたことがあったのに、今さらその事に思い至る。

 午後に予定が入っていなかったとしても、きちんと講義を受けてきたのなら、正午を過ぎたばかりのこの時間に帰ってくることはほぼ不可能。講義がなかった? 詩凪がノエに連れていかれたその日に、偶然? それはあまりに都合の良い事態だ。


 ――そもそも、どうして詩凪が〈グランギニョール〉の二人といることを知られたのか。どうしてこの場所が分かったのか。


「ごめんね、詩凪」


 ヒヤリとしたもの首筋に付けられて、詩凪は身を強張らせた。何なのかは見なくても分かる。鋏。柾の得物。切断を得意とする霧沢の術が込められている触媒。

 解らないのは、どうしてそれが詩凪に向けられているのか、だ。


「霧沢、てめぇ!」

「動かないで」


 凌時が激昂し、こちらに向かって叫ぶが、柾の一言で動きを止める。いつの間にかキキもモップを下ろしていて、戦いは中断されていた。

 苦々しげにこちらを見るキキと凌時。ようやく詩凪は、自分が人質になっている状況が飲み込めた。


 状況は飲み込めたが、事態が全く飲み込めない。


 柾は詩凪に鋏を突き付けたまま、肩掛け鞄から片手で何かを取り出すと、フランセットに向けて放った。何処かで見たことのあるその箱は、詩凪の書斎にあったものだ。

 〈ルルー異録〉のページを入れた、母の結界の術が掛けられた箱。

 そして、足の先で蹴り飛ばされた箱の鍵。


「これで、ページがすべてそろったはずだよ」


 冷たく告げる声は、詩凪たちに向けられたものではなくて。

 フランセットが屈み込んで鍵を拾う様子を、ただ呆然と眺めていた。


「マサくん、何を言ってるの……?」


 信じがたい展開に戸惑う詩凪たちを前に、ケタケタとさも可笑しそうにノエが笑い出す。


「ばーか! 僕たちの主は、そこの不良なんかじゃない。柾様だよ!」


 息を飲む音が聞こえた。それは、自分のものだったか、それとも他の誰かのものか。

 柾はノエの言葉を否定することなく、詩凪の首筋に更に鋏を押し付けた。冷たい金属に皮膚が押される感覚。いつ詩凪の皮膚を破ってくるか切ってくる分からないそれが、たまらなく恐ろしい。


「嘘……」


 さすがのキキも呆然と一言漏らし、


「てめぇ……人を裏切り者呼ばわりして、自分がそうだったってのかよ!」


 凌時は再び激昂する。


「だって、自分が疑われないようにするには、誰かに目を向けさせるのが一番簡単だからね。新参者の君はちょうど都合が良かったし」

「野郎ォ……」


 青筋を立て、柾を睨み付ける。掴みかかってやろうと思ったのか一歩踏み出したところで、道を塞ぐようにノエの剣が新しく一本突き刺さった。舌打ちをしながら、凌時は身を引く。それをノエが愉快そうにせせら笑いながら見ていた。

 箱と鍵を持ったフランセットが、キキたちから距離を取り、柾の後ろへ下がる。キキはモップの柄を両手で強く握りしめながら、彼女の姿を目で追っていた。もどかしさに苛立っている様子が詩凪には分かる。今にもその柄を折ってしまいそうだ。

 そして詩凪は、やはり動けずにいた。首筋に当てられた鋏の恐怖と、柾が裏切者だったという現実を前に。


「マサくん、どうして……?」


 目を見開いて固まったまま、詩凪は問いかける。そう、一番分からないのは動機だ。彼は、ページ集めを手伝ってくれた。自分も〈異録〉の所為で父親を失ったから。〈異録〉に手を出そうとした犯人を捜すためにも、と。

 目指すところは同じだと、そう思っていたのに。


「理由は単純。僕の父が〈グランギニョール〉の頭領だったからさ」


 す、と柾の顔から表情が消える。どんな種類のものであれ、いつも笑みを浮かべている柾の顔は、表情を失うとまるで能面のようだった。感情が全く読み取れない。

 十年以上ずっと一緒にいてはじめて見る柾の顔に、怖い、と心の中で叫ぶ。

 もともと柾は周囲に対して冷ややかなところがあった。道行く他人は当然のこと、言葉を交わす機会がある人間に対しても関心を示すことなく、たとえ目の前で困っていようと歯牙にもかけない冷淡な人――それは詩凪も知っていた。

 けれど、詩凪に対しては違っていた。詩凪だけではない。キキにも間宮にも、凌時にだって、彼なりの信頼を寄せていたと思っていたのに。


 まさか、周囲に向けられていた冷淡な眼差しが、詩凪に向けられる日が来るなんて、これまで思いもしなかった――。


「父はずっと穂稀家の〈異録〉を欲していた」


 詩凪の心境を慮ることなく、ただ淡々と柾は話す。


「昔、よく僕を君の家に連れていったのも、君のお父さんを説得しようとしていたからさ」


 しかし、結果は惨敗だった。今の詩凪と同じように、〈異録〉は封印すべきという理念を持っていた父は、古くから付き合いのある友人の話を全く聞き入れなかったのだという。

 だから、一年前のあの日、とうとう柾の父は事を起こした。


「君の家を訪ねた父は、君のお父さんに最後の説得を試みた。そして失敗したら〈異録〉を強奪するつもりだった。あの結果をみるに、結局そうなったんだろうね」


 そして、柾は詩凪の喉元から鋏を引き、反対側の手で詩凪の顎を押し上げた。

 逆さまから覗き込まれた柾の瞳は、暗く澱んでいた。


「君の両親を殺したのは、僕の父だよ、詩凪」

「そんな……っ!」


 叫びながら、両親の姿を思い出す。仰向けに倒れていた母。その胸につけられていたのは、深く鋭い切り傷ではなかったか――。


「僕の父の方は、君のご両親に殺されたのか、それとも揉み合いの最中にばらけてしまった〈異録〉に殺されたのか、それは分からないけどね。君のご両親に付いた傷は、間違いなく僕の父によるものだ」


 耳を塞ぎたくて仕方がなく、けれどそうすることもできなくて詩凪はただ身を震わせた。足元が震え、力が抜け、コンクリートの床にへたり込む。


「じゃあ、あのとき協力してくれるって言ったのは……」

「魔書の扱いは君の方が優れている。だから、君の傍にいた方が早く集まるんじゃないかと思ったからだよ。実際は当てが外れて、裏で動かしていた〈グランギニョール〉とさほど枚数は変わらなかったけど……」


 やれやれ、と頭を振る。


「まあ、過ぎた話だね。〈異録〉のページはすべて集まった。あとは君が直すだけだ」

「直して……その後はどうするの?」

「もちろん、僕ら〈グランギニョール〉が有効利用させてもらうよ」

「そんなの駄目!」


 詩凪は叫ぶ。ノエと話しているときにも、決意した。あれは危険を招くもの。もともとの所有者として好き勝手に使わせるわけにはいかないし、封じておくべきものだ。

〈グランギニョール〉に……誰か他人を使って試すような人たちに、譲るわけにはいかない。


「でも、君は直さずにはいられない。放っておけばこの〈異録〉は、また怪奇現象を起こすだろうからね。それならば僕たちの手に堕ちた方がまだマシだ、と君は考える」


 詩凪は押し黙る。その通りだ。先程の理念にしたがうならば、詩凪はばらけたままの〈異録〉をそのままにはできない。たとえ、そのまま〈グランギニョール〉の手に落ちることになるのだとしても、そのままにしておくよりは遥かに安全なのだから。


「さあ、詩凪」


 来てくれるよね、と柾は手を差しのべる。

 いつも詩凪を引っ張ってくれた大きな手。その手を取ることに躊躇いを覚えたことなど一度もなかったのに、今回はとてもその手を取ることはできなかった。


「私は……」


 両脇に垂らした手をぐっと握りしめ、詩凪は呻く。


「そんなの、お断りに決まってんだろ」


 詩凪の右肩に温かい手が触れる。いつの間にか凌時が詩凪の傍らで膝を付いていた。励ますように置かれた手は、詩凪が痛みを感じない程度に力強く肩を掴んでいる。

 ノエを振り切ってここまで来てくれたのだろうか。詩凪は凌時を仰ぎ見た。彼は柾をじっと睨みあげている。それから振り返らないままに、キキに声を掛けた。


「キキさん」

「ええ」


 応えたキキは、手にしたモップを窓に向けて投げつけた。ぱりん、と音を立ててガラスが割れる。


「悪いが、帰らせてもらうぜ」


 凌時の掌が背中に移った、と思った瞬間、詩凪の身体が持ち上げられた。背中を腕に支えられ、膝の裏を抱え込まれて、顔は胸の方へと押し当てられる。

 なにがなんだか判らないうちに横抱きにされ、詩凪は身を固くした。割れた窓。抱えられた身体。テレビを見ない詩凪だって、次に何が起こるかくらいは予想できる――。


「じゃあな、馬鹿野郎」


 軽々と詩凪を持ち上げた凌時は、低く柾に吐き捨てると、キキの割った窓から通りへと身を踊らせた。




 通りに落ちたキキの触媒が緩衝材を作っていたと知ったのは、飛び下りてすぐのこと。自立したモップを支点に壁のないプールが通りの上に出現し、貯まった水が詩凪たちを受け止めた。

 いったいいつ打ち合わせたのだろう、と用意周到さに恐ろしささえ抱き。

 ずぶ濡れのまま詩凪たちは寂れた商店街を離れていった。

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